112年前の情動 – 忘れられない切ない想い “愛くるしい面影 Holdes Bild” ドイツ語版 マノン
レオ スレザークのSPレコード
ジュール マスネのオペラ “マノン Manon”
1884年1月19日にパリのオペラ=コミックで初公演を行ったジュール マスネのオペラ “マノン Manon”。たちまち大好評となり世界中で公演されました。1919年にはオペラ=コミックでの公演だけでも、その数は1,000回に到達しました。
オペラ “マノン Manon”が大成功を収めた同じ時期に活躍したのがレオ スレザークです。1896年にチェコでデビューし、ベルリン王立歌劇場 (現王立歌劇場)、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場と着実に世界的なテナー歌手としてのキャリアを積み上げてきました。しかしながら、殆どのレコードはドイツ語で録音しています。
オーストリア=ハンガリー帝国時代に、現在のチェコに生まれ育ったスレザークにとって、ドイツ語圏のファンにオペラを届けたいというこだわりがあったのかも知れません。
オペラ “マノン Manon”の原曲はフランス語。それに対してドイツ語版の歌詞は、単なる直訳ではありません。原曲のフランス語とドイツ語版とを比較して聴いてみるのも楽しいです。
マノンから “消え失せよ、愛くるしい面影 Manon "Ah, fuyez douce image (O flieh holdes Bild)”
ジュール マスネのオペラ “マノン Manon”の第三幕。
駆け落ちしてまで一緒になったものの、第二幕では無理矢理に引き裂かれて別れてしまったマノンとデ グリュー。
デ グリューと過ごした頃のことは忘れ、享楽的な生活を楽しむマノン。それとは対照的に、マノンとの辛い別れを忘れるために、神父となるべく神学校で学び、優秀な成績を収めるデ グリュー。
未だにマノンを忘れられないデ グリューは神に向かい、その悩ましく切ない想いを唄います。
原作はフランス語ですが、レオ スレザークが録音したのはドイツ語でした。原作との違いを感じて欲しいから、オリジナルで和訳しました。
その当時の振動を蓄音機レコードで感じてください。
オリジナルの和訳
ひとり 我はひとり 永遠に
我が定めなのだ
愛しく 呼びかける ものなどない
信ずるべき 聖なる 安らぎとして
この世界 我が心を 知る由もない
唯一 崇拝する 神のみ
消え去れ あぁ 消え失せよ
愛くるしい 面影よ
喜び 苦しみ 共にある
見つめよ 我が 安らぎのみを
重々しくも 勝ち得たものを
そうして 考えるのだ
苦しみを 飲み干せば
我が心は 熱い血で 満ちるのだと
我に 与え給え 安らぎを
愛くるしい 面影よ
消え去れ 消え失せよ
人生をかけ どんな栄誉を
勝ち得よと いうのか?
永遠に 我が罪から 逃れ
忌まわしき名前 あの名前から
我が身に のしかかり
我が身を 消耗するものから
神よ お願いです
我が魂を 清め給え
あなたの御前で あなたの輝きで
消し去り給え
我が魂を 貫き続ける 陰影を
消え去れ あぁ 消え失せよ
愛くるしい 面影よ
喜び 苦しみ 共にある
消え去れ あぁ 消え去れ 消え失せよ
愛くるしい 面影よ 我がために
オリジナルの和訳 ...蓄音機レコードの歌詞
ひとり 我はひとり 永遠に
我が定めなのだ
愛しく 呼びかける ものなどない
信ずるべき 聖なる 安らぎとして
この世界 我が心を 知る由もない
唯一 崇拝する 神のみ
消え去れ あぁ 消え失せよ
愛くるしい 面影よ
喜び 苦しみ 共にある
見つめよ 我が 安らぎのみを
重々しくも 勝ち得たものを
そうして 考えるのだ
苦しみを 飲み干せば
我が心は 熱い血で 満ちるのだと
我に 与え給え 安らぎを
愛くるしい 面影よ
消え去れ 消え失せよ
経緯
- 1731 アベ プレヴォーの小説 “ある貴族の回想録 L'histoire du chevalier des Grieux et de Manon Lescaut”を出版。オペラ “マノン”と“マノン レスコー”の原作
- 1813.5.22 リヒャルト ワーグナーがドイツのライプツィヒで生まれる
- 1836.11.24 ワーグナーが女優のミンナ プラネルとケーニヒスベルク (現ロシアのカリーニングラード)で結婚
- 1837.5 ミンナが恋人と駆け落ち。後に復縁
- 1837.12.24 コジマがイタリアのコモ湖沿いの街ベラッジオでフランツ リストの嫡出子として生まれる (1840年に認知によりコジマ リストに)
- 1850.8.28 リヒャルト ワーグナーのオペラ “ローエングリン Lohengrin”の初演 (ドイツのヴァイマール宮廷劇場)
- 1857.4.23 ルッジェーロ レオンカバッロがナポリで生まれる
- 1864 ルードヴィヒII世がバイエルン国王に就任。ワーグナーの負債を支援
- 1865.4.10 ワーグナーがビュロー夫人のコジマとの間に長女イゾルデを授かる
- 1866.1.25 ミンナがドレスデンで逝去
- 1869.9.22 ワーグナーのオペラ “Der Rheingold ラインの黄金”をミュンヘン宮廷歌劇場で初演
- 1870.7.18 コジマ フォン ビュローが夫と離婚
- 1870.8.25 ワーグナーがルツェルンでコジマと再婚
- 1873.8.18 レオ スレザークがチェコのシュムペルク (オーストリア=ハンガリー帝国時代)で生まれる
- 1874.4.25 エルサ ベルトハイムがウィーンで生まれる
- 1876.8.13-8.30 リヒャルト ワーグナーがバイロイト祝祭劇場を建設。第一回バイロイト音楽祭を開催
- 1883.2.13 リヒャルト ワーグナーがベニスで逝去。妻のコジマが引継ぎバイロイト音楽祭を主催
- 1884.1.19 ジュール マスネのマノンがパリのオペラ=コミックで初演 (フランス語)。世界的な大好評を得る
- 1892.5.21 オペラ “Pagliacci 道化師”がミラノのダル ヴェルメ劇場で初演
- 1893.2.1 ジャコモ プッチーニのマノン レスコーがトリノ王立歌劇場で初演 (イタリア語)。プッチーニの名声を形づけた一歩。
- 1896.4.19 スレザーク: チェコのブルノで舞台デビュー (“ローエングリン Lohengrin”)
- 1897 スレザーク: ベルリン王立歌劇場 (現国立歌劇場)デビュー。長期契約に至らず
- 1899 スレザークがバイロイト音楽祭のオーディションで大失態。主催者のワーグナー夫人に披露する曲について、ワーグナーのオペラ “Das Rheingold ラインの黄金”と“Der Bajazzo 道化師”を間違える。
- 1900 スレザーク: ロンドンの王立歌劇場とコベントガーデンで国際デビュー (ジークフリード役)
- 1900.2.15 スレザークが女優のエルサ ベルトハイムと結婚
- 1901.9 スレザーク: ウィーン国立歌劇場の常任メンバー
- 1907 パリでジャン デ レスケからイタリア語とフランス語でのオペラ教育を受講
- 1909 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場と3年契約 (ベルディのオペラ “オテロ”等)
- 1912.9 スレザークがベルリンで、マノン Manonから “消え去れ、愛くるしい面影よ Ah! Fuyez, douce image”、及び道化師 Der Bajazzoから “Jetzt spielen ! さぁ演じてみよ! ”をベルリンで録音
- 1919 オペラ=コミックでのマノン公演が1,000回に到達
- 1926 スレザーク: ウィーン国立歌劇場の名誉メンバー
- 1930.4.1 コジマ ワーグナーがドイツのヴァーンフリートで逝去
- 1932 スレザーク: ドイツ映画にデビュー (“パーク通りのスキャンダル Skandal in der Parkstraße”)
- 1934 スレザーク: ドイツ映画を主演 (“Musik im Blut 音楽の血統”)
- 1944.5.27 エルサ スレザークがドイツ バイエルンの街ロットアッハ=エーガンで逝去
- 1946.6.1 レオ スレザークがドイツ バイエルンの街ロットアッハ=エーガンで逝去
レオ スレザークのSPレコード ...蓄音機でもっと
- 消え失せよ! 愛くるしい面影 Ah, fuyez douce image (O flieh holdes Bild) - マノン Manon
- さぁ 演じてみよ Recitar (Jetzt spielen) - 道化師 Pagliacci (Der Bajazzo)


