SPレコードのジャケットカバーにまつわるエピソード
100年前にSPレコードにこめた想い
蓄音機で聴くSPレコードには演奏した音や歌った声の振動が直接にレコードの溝として刻まれています。しかもそんな録音をしていたのは、1910年から1929年の間だけという短い期間です。
蓄音機でも1930年以降は音を電気信号に変換して録音していました。
そんな短い間でも、演奏家は自分の音楽がSPレコードとして残され、しかもコンサートに来れない多くの人に聴いてもらえることに歓喜したのです。
そんな時代に演奏家は、どんな想いをSPレコードに込めたのでしょうか。
SPレコード店とジャケットカバー
マンチェスター
フォーシス ブラザーズ
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 マンチェスター ディーンスゲート 126 & 128
マンチェスター市のメインロードに位置する楽器店。1857年創業の老舗で、現在でも同じ場所で営業しています。
元々、ピアノ製作と販売の会社として始まり、現在の社長は5代目で、実に160年の歴史があります。
かつて、ベートーベンが、”ピアノ製作の貴公子”と称したとされ、1905年の様子は、ロンドン音楽年表にも記載されています。
SPレコードのジャケットカバーにある電話番号には、電話取次を行う交換局の名称が書かれています。
電話番号の取次を行う自動交換機の普及は進んでも、マンチェスターで統一した市外局番になったのは1966年のことでした。
それまでは、このジャケットカバーに書かれているように、交換局の名称 “Blackfriars”の初めの3文字 “B”, “L”, “A”に対応する番号で取り次いでいたようです。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、イタリアのバリトン歌手、カルロ タリアブーエ Carlo Tagliabue によるオペラ “イル トロヴァトーレ Il trovatore"。
第二幕 ”君の微笑み (きらめく微笑み) Il balen del suo sorriso”。1951年3月、イギリスでの録音です。
このSPレコード店のジャケットカバーは、もうひとつあります。
入れられていたのは、イタリアのテノール歌手、ジュゼッペ ディ ステファノによるオペラ “トスカ”。第三幕 ”星も光りぬ”。
ゴールデンボイスと称された名声を獲得した初期の1948年3月。イギリスでの録音です。
ハイム & アディソン
SPレコードのジャケットカバーの住所...マンチェスター ジョンダルトン通り37番地
1815年に、始めはおそらく商社として設立された店です。
このSPレコード店に関係する印刷物が、マンチェスターのチェットハム図書館に保管されています。
ひとつは、このSPレコード店が1936年6月15日に旧式ピアノのチューニングを行った際の領収書です。もうひとつは、1888年に、このレコード店が発行した "ロイヤル エクスチェンジ ギャロップ"という曲のピアノの楽譜です。
和訳すれば "王立両替所ギャロップ"。宣伝にでも使われた曲なのかもしれませんが、なんとも突っ込みどころが満載のタイトルです。この建物は、今では "ロイヤル エクスチェンジ シアター"という劇場で有名な歴史的建造物です。
様々な歴史背景を持つSPレコード店。1877年に建設されたビクトリア朝時代のネオゴシック様式の傑作と言われるマンチェスター市庁舎に隣接した場所ですが、今はもうありません。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、スパイク ジョーンズ & シティ スリッカーズの "ホリディ フォー ストリングス"。
1945年にイギリスで製作されたSPレコードです。
W. E. アーチャー
聖ジェームス ビル
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 マンチェスター オックスフォード通り 85 (聖ジェームス ビル内)
聖ジェームス ビル (CPAビル)について
- 1891.5.18 パレスシアター開業
- 1899 繊維会社を統合し、キャリコ プリンターズ社 (CPA)設立
- 1913 内装を7か月かけて大規模改装
- 1940.9 ドイツ軍によるマンチェスター空襲が、パレスシアターを直撃
W.E.アーチャーは、マンチェスターの中心地にある聖ジェームス ビル内にありました。
このビルは、当時繁栄した繊維産業を象徴する巨大会社 (CPA社)の本社屋として1912年に建設されました。隣接してパレスシアターやパレスホテルがあり、商業地として繁栄した場所です。
1940年のマンチェスター空襲で、パレスシアターは空爆の直撃を受けましたが、聖ジェームス ビルは、今でも歴史の面影を残しています。
街並みは昔の面影を残していますが、W.E.アーチャーは今ではもうありません。
電話番号が “City 5565”。交換局名も使われていない番号は、1927年より前になります。この年代は、SPレコードの録音時期にも合致します。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、米国の伝統的なフォークソング、“ウォーターボーイ”。綿花栽培のプランテーションで、水運びをする少年を呼ぶ歌です。アフリカ系アメリカ人のバスバリトン歌手、ポール ロブスンが歌っています。
エヴァリー ロビンソンが、米国の綿花植民地で歌われていたフォークソングを1920年にジャズにアレンジして流行した曲です。
このSPレコードは、1926年2月に英国で録音されました。SPレコードのジャケットカバーの年代と照らし合わせてみると、発売されて直ぐに買い求めたことが伺えます。
当時の背景を想像しながら、ゼンマイの音から聴いてみましょう。
ロイヤルエクスチェンジ ビル
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 マンチェスター 聖アンズ スクエア エクスチェンジ通り 5 (ロイヤル エクスチェンジ ビル内)
ロイヤル エクスチェンジ ビルについて
- 1222 ヘンリー3世からマーケットフェアの許可
- 1708 聖アンズ教会の建立
- 1874 現在のロイヤル エクスチェンジ ビルの建設 (王立綿花取引所)
- 1914-1921 王立取引所の拡張や改修
- 1940 マンチェスター空襲で被害。時計台やドームの取り壊しへ
W. E. アーチャーは、マンチェスターのオックスフォード通りの店から歩いて、僅か10分程の聖アンズ スクエアにもありました。
聖アンズ教会の広場で、マーケットフェアも開かれるマンチェスターの商業中心地です。しかも、当時の中心産業を担う、綿花の取引を行うために建設されたビルの中にありました。
W. E. アーチャー 聖アンズ スクエア店のSPレコードのジャケットカバーに入れられていたSPレコードが、ポール ロブスンの "ツリーズ"です。
“ツリーズ”は、詩人ジョイス キルマーの詩に、オスカー ラスバックが作曲してジャズ音楽に仕上げた曲です。
その曲ができたのは、キルマーが亡くなって20年後のことでした。
キルマーは、詩人として認められ始めてまもなく、第一次大戦に出兵し、フランスの田舎の村で戦死しました。1918年7月30日、31歳という若さで、妻と子供、そして僅かな詩集を残してこの世を去ったのです。
- 1886.12.6 ジョイス キルマー: 米国 ニュー ブランズウィックで生まれる
- 1888.8.2 オスカー ラスバック: 米国 ケンタッキーで生まれる
- 1913.8 キルマー: 詩 ”ツリーズ”を“マガジン オブ ヴァース”に発表
- 1917.8 キルマー: 米国陸軍 (第69歩兵連隊)に所属
- 1918.7.30 キルマー: フランス スランジュ=エ=ネル近郊で戦死
- 1922 ラスバック: ジョイス キルマーの詩 “ツリーズ”に作曲
- 1938 ポール ロブスン: 英国で “ツリーズ”を録音
- 1975.3.23 ラスバック: 逝去
このキルマーの詩は、単純な構成なのに巧みに韻を踏んでいて、そしてさりげなく神への信仰と自然の尊さを詩っています。
米国では、このキルマーの詩を対象にした研究論文もあるくらいに愛されている詩なのですが、日本では馴染みがないことから、あまりしっくりくる和訳が見つかりません。
そこでオリジナルで訳してみました。
樹木ほど 愛らしいポエムがあるだろうか 貪欲に 大地の恵みを吸い上げて いかなる時も 枝葉を広げて神に祈っている 夏には ひばりの巣を飾り 冬には 雪を抱き寄せて 天から降る雨に 自らの命を託している ポエムを書いている 私は愚か者 神さまは ただただ樹木を育む
ポール ロブスンの落ち着いた優しいバスバリトンが、美しい詩の魅力を引き出します。マンチェスター空襲の2年前、1938年に英国で録音された “ツリーズ”。
蓄音機を巻くゼンマイの音と共に、当時を想像しながら聴いてください。
キングストン アポン ハル
ガフ & ディヴィー
SPレコードのジャケットカバーの住所...ハル サビル通り13番地
シャリアピンのSPレコード。それを手に入れた時にSPレコードが入っていたカバーが面白い。
厚紙でできた紙製のカバーなのですが、これに印刷されているのは、当時のSPレコード屋さんのオリジナルのものだと思います。
だから、SPレコード屋さんの名前とか住所が印刷されています。
ガフ & ディヴィーというお店で、ハルという町のサビル通り13番地。
これって実はイギリスにあるキングストン市庁舎という歴史的建造物の住所です。
町の名前はキングストン アポン ハル。
調べてみると、ガフ & ディヴィーは、ピアノ屋さんとしてキングストン市庁舎の一角に今でもあります。この市庁舎は、戦争で壊れましたが修復されて今の姿を保っています。ガフ & ディヴィーもいろんな時代を乗り越えて続いてきたのでしょう。
1921年10月10日に録音された、このSPレコード。まだまだ色々なことを語ってくれそうです。
ストックポート
ベイツ
SPレコードのジャケットカバーの住所...ストックポート近くのニューミルズ ユニオンロード6番地
ニューミルズはマンチェスターの南東に位置し、1900年頃は綿紡績で発展した町です。
ニューミルズの歴史を紐解くと、1906年にアーサー ベイツさんがユニオンロードに楽器の商社を設立しています。そして1930年には、ピアノ、グラモフォンの販売を始めています。
イギリス、そしてランカシャー地域の綿産業が衰退すると共に、綿産業に関わった方たちや町の構成は激しく様変わりしてきたことでしょう。
92年を経た現在、歴史を感じさせる街並みはそのままですが、このレコード店があった住所は、今では歯医者さんになっています。
当時のSPレコード店の住所表記が、現在の郡の名称 ダービーシャーとか住所に使われる行政区の名称 ハイピークなどではなく、”ストックポートの近く”と印刷されているのが面白いです。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、ピーター ピアーズが歌う英国のフォークソング ”フォギー, フォギー デュー"。
録音されたのは1947年8月27日。色々と暗示させる内容から、BBCがラジオ放送を禁止したり、米国の州によっては歌って逮捕される歌手が出たりするなど、当時は相当にお騒がせな曲だったようです。
ピアノ演奏は、ピアーズの生涯のパートナーで作曲家のベンジャミン ブリテンです。
このSPレコードのオモテ面とウラ面の両方には、 "Alan"という名前がサインされています。いったい誰なのでしょうか?
謎が深まります。恐らく、HMV社のSPレコードのリスト編纂に多大な貢献をした、コレクターで編纂者のアラン ケリーのサインなのだろうと思います。
バーンレイ
トーマス ポラード
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 バーンレイ マーケット通り 13
この音楽店は、イギリス マンチェスターの北にあるバーンレイのマーケット通りにありました。
マーケット通りの市場は、1850年にバーンレイで開かれていた3つの市場のひとつで、唯一、公式の市場でした。
そして、マーケット通りにマーケットホールが建設されたのは1866年10月です。
建設された当時、イギリスで最大のマーケットホールというビクトリアン様式の重厚な建造物でしたが、あと5か月で100周年という1966年5月、ついに歴史の幕を閉じました。
マーケット通りは、バーンレイの中心街でパブも多く、土曜の夜になると、ポラード音楽店の前には、蓄音機の音楽を聴くために、多くの若者がたむろしていたそうです。
しかし、そのマーケット通りは既にありません。
周辺地域は1962年に始まった再開発ですっかり様変わりし、今では大きなショッピングモールになっています。
ポラード音楽店があったマーケット通りは、今では街の歴史を映した懐かしい写真の中に見ることができるだけです。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、1911年7月14日に録音された、アンブロワーズ トマのオペラ作品 “ミニョン” 第二幕 “私はティターニア”。イタリアのソプラノ歌手、ルイーザ テトラツィーニが高らかに全盛期の歌声を響かせています。
ベリー / ヘイウッド
リード フランクリン & ヘイウッド
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 ベリー フリート通り 46 / ヘイウッド マーケットプレイス
SPレコードのジャケットカバーによると、リード フランクリン & ヘイウッドは、ベリーのフリート通りと、ヘイウッドのマーケットプレイスの2店舗あったようです。
リード フランクリン & ヘイウッドという楽器店は、どちらの街にも今はもうありません。
ベリーは、イギリス マンチェスターの北西にあり、商業都市として有名な街です。1960年代に繊維産業が衰退した後で、巨大なミルゲート ショッピングセンターを建設し、さらに青空マーケットの人気も相まって、商業都市として発展しています。
大きな変貌を遂げたベリーですが、白黒写真や絵画などで1900年当時の様子を伺うことができます。ショッピングモールができた際に、それまで中心街だったフリート通りがなくなりましたが、当時の面影に地元の方はノスタルジーを感じるようです。
リード フランクリン & ヘイウッドは、フリート通りがなくなった後も、別の通りで営業していましたが、最近になって他のチェーン店に変わったようです。
一方、ヘイウッドのマーケットプレイスは、今でも当時の街並みが残っています。
この通りにある “オールド クイーンアン イン”は、1910年当時の姿のまま今でも営業しています。この街並みは、そのままヘイウッドの歴史を物語っています。
SPレコードのジャケットカバーの電話番号には、交換局の名前も書かれていません。
マンチェスター地区では、1930年には交換局名のアルファベットを使って電話の取次ぎをしていたので、それ以前に使用されていたSPレコードのジャケットカバーなのでしょう。
このSPレコードのケットカバーに入れられていたのは、ジョン マコーマック John MacCormack "カスリーン マヴォニーン Kathleen Mavourneen" と "愛しき歌声 Love's Old Sweet Song"。1929年に録音されたSPレコードです。
ボルトン
A. E. ミーラー
SPレコードのジャケットカバーの住所...英国 ボルトン トンジムーア シキットロード 76
マンチェスターの北西にあるボルトン。
シキットフォードロードには、今はもうSPレコード店はありません。
歴史を感じさせる街並みですが、同じ住所にある店は移り変わりが激しいようです。グーグルマップで見ると、一歩進んだだけで店名が変わってしまい、ここを境に撮影日が違うことが分かります。
ランカシャーとしての繁栄と衰退、トンジムーアの変遷の中で、人々の興味と共に街並みが変わっていったことでしょう。端切れの情報から当時の様子を想像してみたいと思います。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、ジュゼッペ ヴァルデンゴ “道化師 Pagliacci”。
不思議なことに、SPレコードのレコーディング記録がネットで見当たらないのですが、ロンドンのキングスウェイホールで録音され、電気変換するデッカの録音形式が採用される前なので、1944年の録音でしょうか。
ラムスボトム
モンクス
SPレコードのジャケットカバーの住所...ラムスボトム ブリッジ通り53番地
マンチェスターの北に位置するラムスボトム。ラムスボトムのブリッジ通りは、200年の歴史を持つショッピング街として、ラムスボトムの文化遺産として街の記録が保管されています。そのため、ブリッジ通りにあった店舗の番地ごとの変遷まで詳細に残っています。
しかし、モンクスというSPレコード店の所在は、はっきりしません。
文化遺産の記録によると、ブリッジ通り52番地には1897年にピアノ、オルガン、時計を取り扱う商社が設立されています。
1915年には眼鏡を扱うようになり、1924年には、時計と眼鏡店として登録されていますが、1977年にはブティックになっています。
一方で、ブリッジ通り53は、1908年には靴屋、1924年には婦人服店だったとの記録があります。
1955年には電気技師の方が住んでいますが、その間の記録が残されていないのかも知れません。そして、今ではペットショップになっています。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、ポール ロブスンが1940年に録音した "シルビア Sylvia"と "ソーラ Thora"。
バリトンの甘い歌声が重なって、当時の街の様子が生き生きと蘇ってくるように感じます。
ロッチデール
ファース
SPレコードのジャケットカバーの住所...ロッチデール ハリファックス ロード21番地
イギリス、グレートブリテン島の真ん中、マンチェスターから北東にあるロッチデール。
ハリファクスロードは、ロッチデールの真ん中を走るメイン道路です。マンチェスターロードから繋がって、さらに北東のハリファクスに行く道で、さらにその先にはリーズがあります。
メイン道路の始まりから21番目の建物ですから、店や居住者の移り変わりも激しかったことでしょう。
今ではもう、このSPレコード店はありません。
ロッチデールは19世紀の産業革命により、繊維工業がイギリスで最初に発展した町です。世界でも有数の綿織物の生産地でした。
繊維の原料として綿のシェアが、それまで主流だった羊毛を超えたのが1830年。そして蓄音機が普及し始めた1912年、イギリスで生産した綿の生地の86%は輸出用で、イギリスの綿産業は隆盛を極めていました。
その中心に、ロッチデールがあったと言えます。
しかし、1918年に第一次大戦が終わって以降、イギリス、そしてロッチデールの繊維産業は急速に衰退していきます。
品質を重視して、他の国で主流となった大型機械への変換が遅れたためのようです。
このSPレコードも、その変化の波に飲み込まれていったのでしょうか。
このSPレコードのジャケットカバーに入れられていたのは、何度もメンバーが入れ替わったフージャー ホットショッツというバンドが、まだオリジナルメンバーだった時代、1936年7月に録音した "Nobody's Sweetheart 誰の恋人でもない"。
今から実に85年前のSPレコードです。