119年前の嫉妬 - オペラ "ミニョン"から "スティリエンヌ Styrienne" ドイツ語のコロラトゥーラ
ゼルマ クルツのSPレコード
スティリエンヌ (スティリアの娘) Styrienne - トマのオペラ "ミニョン"
オーストリア=ハンガリー帝国繁栄の末期、現在のベラルーシとウクライナの国境に近いポーランドの小さな街で生まれ育ったゼルマ クルツ。幼い頃より歌の才能に恵まれてウィーンで研鑽する機会を得ます。
1895年5月12日にハンブルク州立歌劇場でアンブロワーズ トマのオペラ “ミニョン Mignon”でデビューすると、瞬く間に人気となりました。
3年後の1898年、フランクフルトでのクルツの舞台を観たグスタフ マーラーは、その芸術性と情熱に感銘し、自身が音楽監督を務めるウィーン国立歌劇場に招き入れました。
こうしてクルツは、1899年9月3日の契約以来、ウィーン国立歌劇場を本拠地としてウィーンで生涯を過ごします。
一方で、マーラーとの関係は複雑でした。報道がマーラーの演出に注目してクルツとの恋愛関係を揶揄し始めたのが1900年1月14日。遂に1900年4月10~15日にクルツとマーラーが秘密裏にベニス旅行に出かけたことが発覚すると、ウィーン国立歌劇場はスキャンダルを恐れて干渉するに至り、二人は破局して収束しました。
売り出し中の人気アイドルと有名な作曲家との熱愛報道の行く末は、いつの時代も変わりません。
この騒動の最中に録音された蓄音機レコードが、アンブロワーズ トマのオペラ “Mignonミニョン”の “スティリエンヌ Styrienne”と、シャルル グノーのオペラ “Faust ファウスト”の “お許し願えますか Ne permettrez-vous pas”。
1900年5月、ベルリナー社がウィーンで録音した蓄音機レコードでした。ゼルマ クルツが初めて録音した蓄音機レコードです。この後、1902年と1905年12月21日と、短い期間に三度も蓄音機レコードを製作しています。
“ミニョンMignon”は、クルツのデビュー以来の得意曲で、クルツの代名詞ともなりました。
興味深いことに、“Mignon ミニョン”の “スティリエンヌ Styrienne”も“Faust ファウスト”の “お許し願えますか Ne permettrez-vous pas”の何れも、この時期のクルツとマーラーの関係を想像せずにはいられません。
スティリエンヌ (スティリアの娘) Styrienne ... 蓄音機のレコードで
ゼルマ クルツとグスタフ マーラーの熱愛報道と破局の真っ只中で録音された蓄音機レコードが、アンブロワーズ トマのオペラ “Mignon ミニョン”の “スティリエンヌ Styrienne”と、シャルル グノーのオペラ “Faust ファウスト”の “お許し願えますか Ne permettrez-vous pas”。
“スティリエンヌ Styrienne”は、ヨハン ブルグミュラーのピアノ曲と同名ですが全く違います。
フランス語の原詞では “スティリエンヌ Styrienne”という単語は一切出ません。恐らくフランス語の “ボヘミアン Bohème”に相当する名称としてオーストリアで使われるドイツ語から “スティリエンヌ Styrienne”という単語をタイトルに選んだのでしょう。ジプシーと同様に何れもスラブ系の民族を指します。
オペラ “ミニョン”の第二幕、“スティリエンヌ Styrienne”が歌われる場面。
密かに想いを寄せるウィルヘルムが、実は妖艶なフィリーヌに惹かれていることを知ったミニョン。こっそりとフィリーヌのお化粧と衣装を身に着けます。
そんな自分の姿が映る鏡を見つめながら、ミニョンは幼く地味な姿の自分を卑下し、ウィルヘルムが思いを寄せるフィリーヌの妖艶さに嫉妬している自分に気付きます。
そして、1900年5月に録音されたもうひとつの蓄音機レコード。オペラ “ファウスト”の第一幕から “お許し願えますか Ne permettrez-vous pas”。
この歌曲は、悪魔に魂を売ったファウストが、マルグリットに初めて紳士的に声をかけてマルグリットがファウストに惹かれ始める出会いの場面です。さらに意味深なことに、最後の第五幕では、この時のセリフと場面を思い出してマルグリットがファウストを非難する、正にそのフレーズです。
叶わぬ想いと別れの兆し。当時の二人の関係を想起するような歌曲に、当時の振動を感じてください。
オリジナルの和訳 (このレコード) german ver.
遠くから来た 憐れな子
ジプシーとして 生まれ
悲しく 青白く 震える脚
ハハハ !
素敵なメルヘン !
忘れてしまえたら !
今の方がましよ
一生 こうしていられたら
トラララララ トラララララ
トラララララ トラララララ
ミニョン 平気なの ? えぇ 大丈夫
(このレコードで歌われている一節のみ)
オリジナルの和訳 (全詞) german ver.
遠くから来た 憐れな子
ジプシーとして 生まれ
悲しく 青白く 震える脚
ハハハ !
素敵なメルヘン !
忘れてしまえたら !
今の方がましよ
一生 こうしていられたら
トラララララ トラララララ
トラララララ トラララララ
ミニョン 平気なの ? えぇ 大丈夫
憐れな子 あの方を愛しても
熱意は 独りよがり
誠実に尽くして 満足し
ハハハ !
素敵なメルヘン !
忘れてしまえたら !
今の方がましよ
一生 こうしていられたら
トラララララ トラララララ
トラララララ トラララララ
ミニョン 平気なの ? えぇ 大丈夫
(このレコードにない原詞を含む)
オリジナルの和訳 french ver.
憐れな子
ジプシーの 貧しい子
寂しい風貌 青白い見た目
あぁ ! ばかげた お話 !
弁護しても 無駄なこと !
ずっとましって 分かってる !
もう 同じでは いられない
トラララララ トラララララ
トラララララ トラララララ
そこに居るのは 本当にミニョン ?
ある素敵な日 すべて勝ち取り
思惑すべて つながって
愛する だんな様を 喜ばす…
あぁ ! ばかげた お話 !
弁護しても 無駄なこと !
ずっとましって 分かってる !
もう 同じでは いられない
トラララララ トラララララ
トラララララ トラララララ
そこに居るのは 本当にミニョン ?
(フランス語の原詞より)
経緯
- 1874.10.15 オーストリア=ハンガリー帝国時代のビャワ (現ポーランドのビャワ=ポドラスカ)で生まれる
- 1895.5.12 ハンブルク州立歌劇場でアンブロワーズ トマのオペラ “ミニョン Mignon”でデビュー
- 1898 ウィーン国立歌劇場の音楽監督だったグスタフ マーラーが、フランクフルトでの公演を観てクルツをスカウト。
- 1899.9.3 ウィーン国立歌劇場と契約しデビュー (ミニョン Mignon)。
- 1900.1.14 この日の公演の選曲を契機にクルツとマーラー恋愛関係を新聞が揶揄し始める
- 1900.4.10-15 クルツとマーラーが秘密裏にベニス旅行。ウィーン国立歌劇場がスキャンダルを恐れ破局。
- 1900.5 初めてミニョン “Styrienne” (#1628A, #43014)とファウスト “お許し願えますか Ne permettrez-vous pas” (#1627A, #43015)をベルリナー社がウィーンで録音。
- 1902 ミニョン “Styrienne” (#1014x, #43253)をグラモフォン社がウィーンで録音
- 1902.3.9 マーラー: アルマ シンドラーと結婚
- 1902.11.3 マーラー: 長女マリアが生まれる (1907.7.12にジフテリアとしょう紅熱で逝去)
- 1905.12.21 トマ “Mignon”から “Styrienne” (#3991h, #43737)とベルディ “Rigoletto”から”愛しきお名前 Caro nome” (#3981h, #53431)をグラモフォン社がウィーンで録音
- 1906 ベルディ “Trovatore”から “星は輝き Es glänzte schon das Sternenheer (穏やかな夜)”(#4184L, #43794)をウィーンで録音
- 1906.12 プッチーニ “Bohème”から “ミミと呼ぶの Man nennt mich jetzt nur Mimi” (#0711v, #043081)をウィーンで録音。
- 1908 ベルディ “椿姫 La Traviata”から “そは彼の人か Ah, fors’è lui” (#1307u, #53535)をウィーンで録音
- 1909.10.7 ロッシーニ “セビリアの理髪師 Barbiere di Siviglia”から “今の歌声は una voce poco fa” (#15284u, #53570)を録音
- 1910 ウィーン大学医学部の教授で婦人科医のヨセフ フォン ハルバンと結婚
- 1911.5.11 グスタフ マーラーがウィーンで逝去
- 1912 長女デジレを出産 (デジ フォン ハルバン, ソプラノ歌手)
- 1915 長男ジョルジュを出産
- 1921 初めての海外公演としてニューヨークのヒッポドローム劇場 (1939.8に閉鎖)でのコンサートが予定されたが、渡米後の心臓発作により中止
- 1927.2.12 ウィーンの国立歌劇場で引退公演 (ジョアキーノ ロッシーニのオペラ “セビリアの理髪師”のロジーナ役)
- 1933.5.10 オーストリアのウィーンで逝去
- 1996.2.12 デジ フォン ハルバンがオランダのビルトホーフェンで逝去