100年前の拘り - ”ピアノ協奏曲 第二番" ラフマニノフ 自らの演奏
ラフマニノフのSPレコード
ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18 ...ラフマニノフ
1917年にロシア革命でニューヨークに亡命したセルゲイ ラフマニノフ。
困窮の状況下にあった1919年には普及期にあった蓄音機レコードに活路を求めてエジソンレコードと契約します。しかし音楽には興味がなく音楽品質にも理解を示さなかったエジソン。完璧を求めたラフマニノフは同年にエジソンレコードとの契約を破棄します。
1920年には技術的に優れ音楽品質を追求したビクタートーキングマシーンと契約。
そして1924年1月3日。ラフマニノフの代名詞となるピアノ協奏曲第二番を自らのピアノ演奏で録音したのです。
こうしてピアノ協奏曲第二番の最初の録音となりました。しかし第一楽章を除く第二楽章と第三楽章のみがレコードとしてリリースされます。完璧主義者のラフマニノフは当時の第一楽章の録音に満足できなかったものと思われます。
第一楽章を含めたピアノ協奏曲第二番のレコードは1929年4月13日の録音まで待つことになるのです。
交響曲などの作曲家としては、なかなか評価されずに不遇の時代を過ごしたラフマニノフ。
1900年と1907年に作曲家として栄誉あるグリンカ賞を2度も受賞しながら、コンサートピアニストとして他の作曲家の曲を演奏することが多くなります。
1917年10月に起きたロシア革命により故国のロシアを追われてアメリカに住むようになってから、作曲の創造性や活力を失っていきました。
アメリカには、大麦と白樺がないから作曲できない。
90年前のレコードに、その時代のラフマニノフの生々しい哀しみが刻み込まれて、レコードの溝をたどる度に、それが再びよみがえってくるような気がします。
経緯
- 1873.4.1 セルゲイ ラフマニノフがロシア ノヴゴロドで生まれる
- 1882.4.18 レオポルド ストコフスキーがロンドンで生まれる
- 1892.9.26 前奏曲嬰ハ短調 作品3の2「幻想的小品集」をモスクワで初演
- 1892-1893 卒業後にモスクワで移住 (15 プロトニコフレーン, 旧19 ニコルスキーレーン)
- 1897 サンクトペテルブルクでの交響曲初演が大不評。自身喪失と神経衰弱に
- 1899 別の交響曲がトルストイに不評
- 1900 組曲第二番とピアノ協奏曲第二番で成功。グリンカ賞を受賞
- 1902 従妹のナターリャ サーチナと結婚
- 1904-1906 ボリショイ劇団の指揮者
- 1906-1909 ドレスデンに滞在
- 1907 交響曲第二番を作曲。二度目のグリンカ賞を受賞
- 1909 ピアノ協奏曲第三番を作曲
- 1910 ボストンシンフォニーの永久指揮者のオファーを蹴ってロシアへ
- 1917.10 ロシア革命で米国ニューヨークに亡命
- 1919 エジソンと音楽品質への姿勢で折り合わず、エジソンレコードと解約
- 1920-1942 ビクタートーキングマシーンで録音
- 1920.11.3 「紡ぎ歌」をニュージャージーで録音
- 1921.10.14「前奏曲嬰ハ短調 作品3-2」をニュージャージーで録音
- 1921 クライスラー "愛の悲しみ"を編曲
- 1924.1.3 ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18 (第二、第三楽章)を録音
- 1925 クライスラー "愛の喜び"を編曲
- 1925- 欧州で演奏と録音
- 1926 ピアノ協奏曲第四番を作曲
- 1928 シューベルト国際作曲コンクール開催 (コロンビア グラモフォン主催)
- 1928.9.15 ベルリンでクライスラーの共演でグリックのソナタを録音
- 1928.12.21 ニューヨークでシューベルト "バイオリンとピアノのためのソナタ"をラフマニノフとの共演で録音
- 1929.4.10-13 ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18 (第一~第三楽章)を録音
- 1929.10.24 暗黒の木曜日。米国で株価が暴落し世界恐慌に。
- 1931 スイス ルツェルン湖畔の別荘に滞在。交響曲第三番を作曲
- 1939.4.1 独ナチスがポーランド侵攻。第二次大戦が勃発
- 1942 スイスを追われて米国ビバリーヒルズへ移住
- 1943.3.28 セルゲイ ラフマニノフがビバリーヒルズの自宅で逝去
- 1977.9.13 レオポルド ストコフスキーが英国ニューハンプシャーで逝去