92年前の興奮 – 幻の無声映画 “何が彼女をさうさせたか” 伝説の活動弁士の語り
熊岡 天堂のSPレコード
無声映画 何が彼女をさうさせたか - 原作 藤森 成吉 監督 鈴木 重吉
SPレコードには “映画説明”というカテゴリーがあります。1920年から1930年の当時は映画に音声が付いていないサイレント映画の時代。映画に合わせて場面を盛り上げ、観客を動員する役割を担うのが映画説明。その語り手が活動弁士です。
紹介するのは伝説の活動弁士、熊岡 天堂が語るサイレント映画 “何が彼女をさうさせたか”の録音。1930年3月 (昭和5年)に日本コロムビアが録音しました。
この映画は、藤森 成吉が1927年 (昭和2年)に発表した戯曲をもとに、鈴木 重吉が監督して製作した映画です。
1930年2月6日 (昭和5年)に公開されて大好評。浅草では異例の5週間連続しての上映となり、“何がそうさせたか”は、流行語になりました。
当時、浅草の映画館で人気の活動弁士が、熊岡 天堂。活動弁士の語りが観客動員の成否を左右した時代です。その凄さは、サイレント映画の時代が終わり、活動弁士が職を失った後でも熊岡 天堂がラジオ声優として活躍し、声優の先駆けとも称されたことからも分かります。
上映と同じ年、映画 “何が彼女をさうさせたか”のフィルムは撮影所の火災で紛失。62年後の1992年にロシアで奇跡的に発見されて復元されるまで、幻の名画と呼ばれました。
主演女優の高津 慶子が演じる中村 すみ子の不幸な生い立ち。何が彼女を追い詰め、人生を狂わせ、最後にそうさせてしまったのか。
熊岡 天堂の語りに、当時の映画館の情景を想像しながら、生の振動をゼンマイの音から感じてください。
何が彼女をさうさせたか ... 蓄音機のレコードで
活動弁士 熊岡天堂の語り
登場人物
すみ子 ...不幸な生い立ち。新太郎と結ばれるが心中未遂で婦人収容所に入る。 新太郎 ...すみ子の幼なじみ おかく ...婦人収容所で新太郎への手紙を勧めて預かるが園主に見つかる。 うめ子 ...婦人収容所 天使園の園主。新太郎への手紙を咎めて内容の公表を強いる。
幸せ~心中~天使園の段
この夜、この屋のせがれタツオの無体の恋慕に、すみ子はその恐るべき魔の手を逃れ、濡れネズミのごとくになって本所の裏町なる新太郎の元を訪れた。 不思議な運命の力は、今年19になる新太郎と16になるすみ子をして、その夜から固く結びつけたのでありました。 こうして楽しい二人が愛の生活も、新太郎の失業から生き行くべき道は失われて、二人は遂に死の道を選ぶより他にはなかった。 彼らは一週間の後、相模灘の傍らに佇んでいた。 静かに打ち寄する満ち潮を青白い月の光が寂しく照らしておりました。 「どうして人間のしていることってみんな汚いんでしょうねぇ。」 「人間にだって随分きれいな世界はあるさ。ただ僕たちが知らないだけなんだ。けれどもせっかく嬉しい関係になりながら、金に詰まって死ぬなんて情けないなぁ。」 「でもあたし、あんまり続けて色々な世界を見てきたせいか知れないけれど、もう生きていくのが嫌になりました。」 二人は涙の中に固く手と手を握りしめ、扱(しご)きによってその体を結び付け、遂に岩頭(がんとう)から身を躍らしたのでありました。 けれどもすみ子は再び救われた。 時は流れて五月の初め、スミレ婦人救護会の手によって彼女に与えられた新しい世界。 入り口には「富める者の天国に入(い)るは難(かた)し」と記されてあった。 ここはキリスト教婦人収容所の天使園であります。 人の愛に飢え瑕疵した者が神の愛を求むることは決して無理ではないのであります。 何故ならば神を信ずる者の言葉には「神は愛なり」と説かれてある。 この天使園におかくと呼ぶ30を過ぎた隣宅の女がいた。 おかくは教会の力によって正しき者として出園を許される日でありました。 「ねぇすみちゃん、誰だって出ていく者に手紙を頼むんだから、お前さんのも出して上げるからお書きな。」 「でもあたし、もう思い切っているんですわ。」 「心中までした仲でそんなに容易く思い切られてたまるものかね。向こうはきっとお前さんよりも恋しがっているんだよ。それに助かって居所さえ知れているんじゃないか。」 「でもあたし、新しい生活に入る気なんですの。」 「新しい生活って神様かい。あぁ嫌だ、空っきし人の自由を認めない、手紙一つも書けないわが天国よ。この少女を哀れみ給えだ。」 注) 扱き...扱き帯。布をしごいてしめる帯
懺悔~抵抗~終焉の段
やがて日曜日の鐘は鳴り、祈りの歌は聞こえてきた。 「ちょっと時間をいただきまして、姉妹(きょうだい)の一人に証(あかし)をさせます。」 あっと驚いたすみ子、一同の視線が彼女の上に投げ与えられた。 「さぁすみ子さん、さっきの約束通りここへきて告白をなさい。あなたが今までしてきたことを赤裸々にお話なさい。」 無理矢理におかくに勧められて新太郎に書いた手紙は見つけ出され、罪は返って彼女に与えられてしまったのでありました。 彼女は何とも答えなかった。 「よろしい、あなたが恥ずかしくって言えないのなら、私が代わって言ってあげましょう。」 冷笑を含み静かに教壇に向かう主任の姿はあたかも冷酷そのもののごとくでありました。 すみ子はやがてばね仕掛けの人形のごとくに席を離れ、紫苑に燃ゆる二つの瞳は爛々として正面の十字架をじっと睨みつけていた。 「皆さん、神様が愛だなんてみんな嘘です。あんなにお詫びをしたのに許さないで恥をかかせようなんて、神様が愛ならとうに許してもらえているはずです。」 「まぁ何を言うのですか。」 「神様なんてなんだか分かりません。そんな神様なら無い方がずっとましです。天使園なんて嘘です。何もかもみんな嘘です。」 青天の霹靂にも似たる少女の叫びに一同は去った。 その夜、天使園は赤い炎に焼かれていくのでありました。 終焉の屋からうめ子は収容されていた人々を捨てのけ、自己の安全を図るがために唯一人逃れた。 紅蓮の炎は正に球天を焦がさんと成すと、あたかも燃え上がる猛火を眺めて快哉(かいさい)を叫ぶ一人の少女がありました。 「あぁ赤い天使がどっさり舞い上がっていくわ。みんな天国へ行くのだ。」 「こら、お前が火を着けたのか。」 「そうです、あたしが着けました。」 見よ、童顔可憐な一少女は放火の犯人として引かれて行く。 何が彼女をそうさせたのであろうか。 原作者、藤森成吉氏の題名を結語といたしまして、物語全巻の終わりを告げるのであります。
経緯
- 1892.8.28 藤森 成吉が長野県諏訪で生まれる
- 1894.1.15 (明治27) 熊岡 天堂が東京で生まれる (本名 熊岡 清一)
- 1894.4.13 徳川 夢声が島根県益田で生まれる (本名 福原 駿雄)
- 1900.6.25 鈴木 重吉が東京で生まれる
- 1912.2.13 高津 慶子が大阪府天下茶屋で生まれる (本名 池田 本子)
- 1925 徳川 夢声が新宿の武蔵野館に活動弁士として所属。東京で大人気に
- 1927.1-4 (昭和2) 藤森 成吉が戯曲 “何が彼女をさうさせたか”を発表
- 1927.4.15 劇団 築地小劇場が築地で “彼女”を初演
- 1927.10.6 世界初のサウンド オン ディスク方式の映画 “ジャズシンガー”が米国で公開 (ワーナー ブラザーズ)
- 1928.11.18 世界初のサウンド オン フィルム方式の映画 “蒸気船ウィリー”が米国で公開 (ウォルト ディズニー)
- 1929.5.9 (昭和4) 国内初のトーキー映画が武蔵野館で公開 (フォックス “南海の唄” “進軍”)
- 1930.2.6 (昭和5) 無声映画 “何が彼女をさうさせたか”を公開 (監督/脚本 鈴木 重吉)。浅草で5週間続映の記録。流行語に
- 1930.3 (昭和5) 熊岡 天堂が映画説明 “何が彼女をさうさせたか”をSPレコードに録音
- 1930.6 熊岡 天堂: 浅草 常盤座の説明部長
- 1930.9.30 帝国キネマ長瀬撮影所の火災で映画 “何が彼女をさうさせたか”のフィルムが紛失
- 1930 “何が彼女をそうさせたか”がキネマ旬報ベストテンで第1位
- 1931 国内初のトーキー映画 “マダムと女房”を松竹キネマが製作 (監督 五所平之助)
- 1932.4.18 浅草の松竹系映画館 大勝館と電気館で活動弁士の解雇に反対しストライキ
- 1932.6.5 新宿の武蔵野館で活動弁士のストライキ
- 1933 (昭和8) 徳川 夢声が活動弁士を廃業
- 1971.8.1 徳川 夢声が東京の府中で逝去
- 1974.8.16 (昭和49) 熊岡 天堂が逝去
- 1976.10.8 鈴木 重吉が鎌倉で逝去
- 1977.5.26 藤森 成吉が神奈川県逗子で逝去
- 1992 映画 “何が彼女をさうさせたか”のフィルムがロシアで発見され復元
- 1994.7 映画 “何が彼女をさうさせたか”の復元版が公開
- 1997 第10回 東京国際映画祭で映画 “何が彼女をさうさせたか”の復元版を上映