190年前を知る93年前のバラード - 結婚祝い ショパンからのプレゼント

アルフレッド コルトーのSPレコード

ショパン "バラード"

アルフレッド コルトーが9歳から18歳までピアノをパリ音楽院で学んだのが1886年から1895年。この時期は、パリで実際にショパンの生の演奏を聴き、そして直接パリ音楽院でショパンの指導を受けた教授陣がピアノ科の教鞭を取っていた時期と重なります。

1831年、ショパンが21歳でワルシャワとウィーンを去り、1849年11月17日に39歳で亡くなるまで住んでいたパリ。ショパンの生の音楽に接していたのがパリの音楽家たちでした。

それから78年後の1927年、初めてショパン国際ピアノコンクールがワルシャワで開催されます。

第一次世界大戦が終わり、疲弊したポーランドの若者を勇気づけ、さらにショパンの音楽をフランスからポーランドに引き戻すことが開催の目的でした。

そして、ショパン国際ピアノコンクールが本当の意味で国際的なイベントとして認知されるのは、ソ連とポーランド以外から初めて優勝者が現れた1960年。コルトーがスイスのローザンヌで亡くなった1962年6月15日の僅か2年前でした。

ショパンの音楽性がフランスからポーランドに移る転換点になったのが1927年。それからほんの2年しか経っていない1929年3月11日と6月7日に録音されたのが、アルフレッド コルトーが演奏するショパンのバラード第1番から第4番です。ショパンの曲をセット組として録音したのは、コルトーが初めてでした。

ショパンの生の演奏を知っているパリ時代を継承したコルトーの演奏。その生の振動を、ゼンマイの音からお聴きください。

バラード 第1番 ト短調 作品23

ショパンがマリア ボジンスカにプロポーズした1836年に、ライプツィヒでシューマンにバラード 第1番 (ト短調 作品23)を披露しました。その後、マリアとの婚約は翌年の1837年に解消されています。

謹呈 シュトックハウゼン男爵

バラード 第2番 ヘ長調 作品38

ショパンとジョルジュ サンドとの関係が公になったのは1838年。この年の冬、1838年11月8日から1839年2月13日にショパンは病気の療養のため、地中海のマヨルカ島に滞在していました。この時期、持病の肺疾患は酷い症状でしたが、1839年1月5日にピアノが届くとバラード 第2番 (ヘ長調 作品38)などの作品を作曲しました。

謹呈 ロベルト シューマン

バラード 第3番 イ長調 作品47

ショパンがフランスのノアンに滞在していた1841年11月に作曲されました。

この曲は、フランスの名門ノアイユ家の令嬢、ポリーヌ ドゥ ノアイユ嬢に謹呈されています。ポリーヌは、ノアイユ公爵の長女で当時17歳。ショパンからピアノを習っていました。

バラード第3番を謹呈された翌年の1842年6月20日、ポリーヌは18歳で再従兄妹 (はとこ)のモーリス ドゥ ノアイユと結婚します。ショパンは、ポリーヌの婚約祝いとしてバラード第3番をプレゼントしたのかも知れません。

しかし、幸せな結婚生活も束の間、それから僅か2年足らずの1844年4月4日に、ポリーヌは20歳の若さで亡くなります。

謹呈 ポリーヌ ドゥ ノアイユ

バラード 第4番 ヘ短調 作品52

ショパンがフランスのノアンに滞在していた1842年に作曲されました。

この曲は、ロスチャイルド財閥でパリ在住の一族、シャーロット ドゥ ロスチャイルド夫人に謹呈されています。

シャーロットは、当時17歳。14歳だった1839年から、母のベティと共にショパンのピアノ指導を受けていました。

作曲された1842年8月16日に、シャーロット嬢は、従兄のナサニエル ドゥ ロスチャイルドと17歳で結婚しており、バラード第4番は、シャーロット嬢の結婚のお祝いとしてプレゼントされたことが分かります。

結婚から11年後の1853年、シャーロットとナサニエル夫妻は、ボルドーのワイン農園を買収します。こうしてボルドーのトップシャトーとして有名なシャトー ムートン ロスチャイルド (ロートシルト)が誕生しました。

ショパンが1849年10月17日に亡くなった4年後のことでした。

謹呈 シャーロット ドゥ ロスチャイルド

ショパンのバラード第1~4番 アルフレッド コルトー

経緯

  • 1877.9.26 スイスのニヨンで生まれる
  • 1886-1905 パリ音楽院に就学
  • 1896 フランスに移住
  • 1902 ユダヤ系ベルギー人のクロチルド ブレアルと結婚
  • 1905-1920 ジャック・ティボー、パブロ・カザルスとカザルス三重奏団として演奏
  • 1919 パリにエコールノルマル音楽院を設立
  • 1920 米国とソ連で指揮者として演奏ツアー
  • 1925.3.21 ビクター トーキングマシーンからクラシック音楽で世界初の電子録音
  • 1925 ショパン “ワルツ” 7番をビクトローラで録音
  • 1927 第1回ショパン国際ピアノコンクール開催。ショパンの音楽性がフランスからポーランドに移る変換点に
  • 1929.3.11 & 6.7 ショパン "バラード第1~4番" 初めてのセット組を録音
  • 1930 ショパン “ワルツ” 7番を英国HMVで録音
  • 1933 ショパン “ワルツ” 3番 “華麗なるワルツ”を英国HMVで録音
  • 1935 ショパン “ワルツ” 3番と4番 “子猫のワルツ”を英国HMVで録音
  • 1936 ショパン “ワルツ” 7番と8番を米国ビクターで録音
  • 1942 ドイツ軍の宣伝イベントで演奏。後にフランスで有罪になり演奏停止
  • 1946.12.2 パリで妻と死別
  • 1947.1 パリのシャンゼリゼ劇場でショパンの“葬送行進曲”を演奏。反対者の暴動が起きる
  • 1947 ショパン “ワルツ” 6番 “子犬のワルツ”をHMVで録音
  • 1947-1949 スイスに移住
  • 1949.11.4 ロンドンで、ショパン “ワルツ” 9番 “別れのワルツ”と11番を録音
  • 1962.6.15 スイスのローザンヌで逝去

アルフレッド コルトーのSPレコード ... 蓄音機でもっと

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