72年前のワルツと傷心 - ショパンの "別れのワルツ" パリ市民の批判 愛する妻の死

アルフレッド コルトーのSPレコード

別れのワルツ ... ショパン

アルフレッド コルトーは、蓄音機が普及し始めた1920年にはピアニストとしての地位を確立し、音楽教育にも貢献しました。ショパンの曲も多く録音しています。

しかし、第二次世界大戦に際してドイツ軍の宣伝イベントで演奏したことを契機にフランスでの立場が変貌します。有罪判決、演奏活動の停止、そしてパリのシャンゼリゼ劇場でショパンの”葬送行進曲”を演奏したことが、パリ市民を激怒させて暴動を引き起こしたのです。

ついにフランスを離れ、スイスに移住したコルトー。

ところが、この一連の事件に別の背景を想像することができます。

1902年に結婚したコルトーの妻はベルギー生まれですが、ユダヤ系の家系でした。コルトーがドイツ軍との関係を責められて有罪判決を受けた時、妻は72歳の高齢でした。それから4年後の1946年12月、コルトーの妻はパリで亡くなりました。

その翌月、1947年1月にコルトーがパリのシャンゼリゼ劇場でショパンの“葬送行進曲”を演奏したのは誰に向けての想いだったのでしょうか。パリ市民からの批判に、コルトーの心はどれほど打ちひしがれたことでしょう。

そして、ショパンの ”ワルツ” をロンドンで録音したのは、愛する妻を失って3年後、1949年11月4日のことでした。

"別れのワルツ"。ゼンマイの音と共に、コルトーの想いを感じてください。

経緯

  • 1877.9.26 スイスのニヨンで生まれる
  • 1886-1905 パリ音楽院に就学
  • 1896 フランスに移住
  • 1902 ユダヤ系ベルギー人のクロチルド ブレアルと結婚
  • 1905-1920 ジャック・ティボー、パブロ・カザルスとカザルス三重奏団として演奏
  • 1919 パリにエコールノルマル音楽院を設立
  • 1920 米国とソ連で指揮者として演奏ツアー
  • 1925.3.21 ビクター トーキングマシーンからクラシック音楽で世界初の電子録音
  • 1925 ショパン “ワルツ” 7番をビクトローラで録音
  • 1927 第1回ショパン国際ピアノコンクール開催。ショパンの音楽性がフランスからポーランドに移る変換点に
  • 1929.3.11 & 6.7 ショパン "バラード第1~4番" 初めてのセット組を録音
  • 1930 ショパン “ワルツ” 7番を英国HMVで録音
  • 1933 ショパン “ワルツ” 3番 “華麗なるワルツ”を英国HMVで録音
  • 1935 ショパン “ワルツ” 3番と4番 “子猫のワルツ”を英国HMVで録音
  • 1936 ショパン “ワルツ” 7番と8番を米国ビクターで録音
  • 1942 ドイツ軍の宣伝イベントで演奏。後にフランスで有罪になり演奏停止
  • 1946.12.2 パリで妻と死別
  • 1947.1 パリのシャンゼリゼ劇場でショパンの“葬送行進曲”を演奏。反対者の暴動が起きる
  • 1947 ショパン “ワルツ” 6番 “子犬のワルツ”をHMVで録音
  • 1947-1949 スイスに移住
  • 1949.11.4 ロンドンで、ショパン “ワルツ” 9番 “別れのワルツ”と11番を録音
  • 1962.6.15 スイスのローザンヌで逝去

アルフレッド コルトーのSPレコード ... 蓄音機でもっと

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