129年前の情熱 - "前奏曲 嬰ハ短調" ラフマニノフ19歳 初めての作品集
ラフマニノフのSPレコード
前奏曲 嬰ハ短調 作品3の2 ... ラフマニノフ
1892年9月26日にモスクワで発表された作品です。セルゲイ ラフマニノフが19歳という若さで作曲した初めての作品集でした。
この時、「幻想的小品集」として5曲をラフマニノフ本人が演奏しました。そのうちの1曲が、このレコードに録音されている「前奏曲嬰ハ短調 作品3の2」です。
後に、前奏曲の作品集は24曲まで増えていきましたが、この最初の作品が、ラフマニノフを象徴する最も有名な曲になりました。
ラフマニノフが「前奏曲嬰ハ短調 作品3-2」を録音したのが1921年10月14日。
音楽の品質に対する姿勢についてエジソンと折りが合わず、エジソンレコードとの契約を解約した2年後のことでした。
自身の作曲と演奏、そして音楽としての品質に込めたラフマニノフの情熱を、ゼンマイの音から当時の生の振動で感じてください。
経緯
- 1873.4.1 ロシア ノヴゴロド生まれ
- 1892.9.26 前奏曲嬰ハ短調 作品3の2「幻想的小品集」をモスクワで初演
- 1892-1893 卒業後にモスクワで移住 (15 プロトニコフレーン, 旧19 ニコルスキーレーン)
- 1897 サンクトペテルブルクでの交響曲初演が大不評。自身喪失と神経衰弱に
- 1899 別の交響曲がトルストイに不評
- 1900 組曲第二番とピアノ協奏曲第二番で成功。グリンカ賞を受賞
- 1902 従妹のナターリャ サーチナと結婚
- 1904-1906 ボリショイ劇団の指揮者
- 1906-1909 ドレスデンに滞在
- 1907 交響曲第二番を作曲。二度目のグリンカ賞を受賞
- 1909 ピアノ協奏曲第三番を作曲
- 1910 ボストンシンフォニーの永久指揮者のオファーを蹴ってロシアへ
- 1917.10 ロシア革命で米国ニューヨークに亡命
- 1919 エジソンと音楽品質への姿勢で折り合わず、エジソンレコードと解約
- 1920-1942 ビクタートーキングマシーンで録音
- 1920.11.3 「紡ぎ歌」をニュージャージーで録音
- 1921.10.14「前奏曲嬰ハ短調 作品3-2」をニュージャージーで録音
- 1921 クライスラー "愛の悲しみ"を編曲
- 1925 クライスラー "愛の喜び"を編曲
- 1925- 欧州で演奏と録音
- 1926 ピアノ協奏曲第四番を作曲
- 1928 シューベルト国際作曲コンクール開催 (コロンビア グラモフォン主催)
- 1928.9.15 ベルリンでクライスラーの共演でグリックのソナタを録音
- 1928.12.21 ニューヨークでシューベルト "バイオリンとピアノのためのソナタ"をラフマニノフとの共演で録音
- 1931 スイス ルツェルン湖畔の別荘に滞在。交響曲第三番を作曲
- 1939.4.1 独ナチスがポーランド侵攻。第二次大戦が勃発
- 1942 スイスを追われて米国ビバリーヒルズへ移住
- 1943.3.28 ビバリーヒルズの自宅で逝去