111年前の高揚 - クライスラー編曲 "ユーモレスク" 出兵する僅か4年前のバイオリン演奏
フリッツ クライスラーのSPレコード
ユーモレスク ... 作曲 ドボルザーク 編曲 クライスラー
1910年5月11日にニューヨークで録音されたレコードです。オーケストラなどの音楽の録音ができるようになってきたのが1906年。音楽を録音できるような品質になったのは、グラモフォン社のHis Master's Voiceというレーベルだったといいます。この時、エジソンレコードは音楽を録音するような品質ではなかったようです。その原因は、エジソンは音楽に関心がなかったからという話です。
クライスラーの喜びようはすごかったことでしょう。
しかし、それから4年後の1914年、クライスラーは、陸軍中尉として第一次大戦の最前線に出兵することになったのです。
そんな時代に録音されたユーモレスク。作曲はドボルザーク、編曲がフリッツ クライスラー、そして演奏も本人のフリッツ クライスラーという曲です。有名なメロディは皆さんも聞いたことがあることでしょう。
ゼンマイの音からお楽しみください。
フリッツ クライスラーと蓄音機レコード
フリッツ クライスラーのバイオリン演奏で録音されたユーモレスク。この時、ニューヨークでは、ビクタートーキングマシーン社とグラモフォン社の両方に向けて2回録音されたようです。
前回紹介したのはグラモフォン社のHis Master's Voiceというレーベルです。
その録音が行われたのが1910年5月11日。今からなんと111年も前のことです。この時代は勿論、電気を介さずに直接バイオリンの生の音と生の響きが、生の振動としてレコードの溝に刻み込まれていました。
クライスラーがウィーンフィルを追われてしまった後で、ベルリンフィルに呼ばれたのが1899年のこと。この間、軍隊にも所属したりして、やっと音楽に道を見つけた喜びに満ち溢れた時期だったと想像します。
それに加えて、自分の音楽演奏が、技術の発達によりレコードとして記録できるようになるとは、クライスラーの興奮はどれほどだったでしょう。
しかし、そんな喜びも束の間、そのわずか4年後、第一次世界大戦により、クライスラーは陸軍中尉として東部戦線に出征して音楽家としての道は再び閉ざされたのです。
経緯
- 1875.2.2 オーストリア ウィーン生まれ (21 グローセ シッフガッセ)
- 1894.8.27 ドボルザーク:ユーモレスク小品集をボヘミアで作曲
- 1895 軍隊に入隊後、音楽活動に復帰するもウィーンフィルを追われる
- 1899 ベルリンフィルで成功
- 1901 ハリエット リースと出会う
- 1902 ニューヨークで結婚。ロンドンデビュー
- 1904.5.1 アントニン ドボルザーク:プラハで逝去 (当時はオーストリア=ハンガリー帝国、62歳)
- 1905 "愛の喜び"、"愛の悲しみ"を作曲
- 1910.5.11 ユーモレスクをバイオリン編曲し録音
- 1914 第一次大戦の東部戦線に出征。陸軍中尉
- 1914.11.14 第一次大戦が終結
- 1916.5.29 「ベートーヴェンの主題によるロンディーノ」を作曲し録音。ビゼーの「アルルの女 第1組曲よりアダジェット」を編曲し録音
- 1919 ニコライ リムスキー=コルサコフのオペラ "金鶏"から "太陽への賛歌"を編曲
- 1921 ラフマニノフが "愛の悲しみ"を編曲
- 1924-38 欧州 (独、仏)で音楽活動
- 1925 ラフマニノフが "愛の喜び"を編曲
- 1928 シューベルト国際作曲コンクール開催 (コロンビア グラモフォン主催)
- 1928.3.24 ドボルザーク "スラブ舞曲 第2集 作品72”とリムスキー=コルサコフのオペラ "金鶏"から "太陽への賛歌"を編曲しニューヨークで録音
- 1928.9.15 ベルリンでグリックのソナタをラフマニノフとの共演で録音
- 1928.12.21 ニューヨークでシューベルト "バイオリンとピアノのためのソナタ"をラフマニノフとの共演で録音
- 1935.2.8 クライスラー編曲は、実は殆どがクライスラー自身の作曲と暴露される
- 1938 故国オーストリアが独ナチスに併合されたため、フランス国籍を取得
- 1939 第二次大戦で欧州を離れてアメリカへ
- 1941 交通事故で重傷。視覚障害や記憶障害に
- 1950 引退
- 1962.1.29 ニューヨークで逝去