SPレコードにまつわるエピソード
演奏家 - バイオリン
パブロ デ サラサーテ
- 1835.10.9 カミーユ サン=サーンスがパリで生まれる
- 1844.3.10 パブロ デ サラサーテがスペイン北部バスク地方のパンプローナで生まれる
- 1848 サン=サーンスがパリ音楽院に入学
- 1853 サン=サーンス: 交響曲第一番を作曲
- 1853-1857 サン=サーンス: パリのサン=メリ教会のオルガン奏者を務める
- 1855.7 パリ音楽院に向かう途上でコレラに発症。母のジャビエラ アントニアJaviera Antoniaが合併症のためフランス南西部のバイヨンヌで逝去。
- 1856 パリ音楽院に入学。パリ音楽院の理事テオドール ラサバッティと妻のアメリエが親代わりに支える
- 1858 サン=サーンス: パリのマドレーヌ寺院のオルガン奏者を務める
- 1858 サン=サーンス: バイオリン協奏曲第二番ハ長調 作品58を作曲。1879年に出版
- 1863 サン=サーンス: 序奏とロンド カプリチオーソ イ短調 作品28を作曲。サラサーテに献呈
- 1866 サラサーテがバイオリンの名工 ヴィヨームからストラディバリウス(1724年製)を購入 (現le Sarasate ル サラサーテ)
- 1867.4.4 サラサーテが序奏とロンド カプリチオーソをシャンゼリゼで初演
- 1870.4.4 ニューヨークツアーのためニューヨークに到着
- 1870.4.20 アンリ コヴァルスキのコンサートで階段から転落し負傷。ストラディバリウス (1724年製)を破損。急遽、ヴィヨーム作のバイオリンで演奏。
- 1871.12.5 テオドール ラサバッティが逝去
- 1872.2.1 サラサーテの1724年製ストラディバリウスはヴィヨームがニコロ パガニーニから購入した品との鑑定証明書をヴィヨームに依頼
- 1872.5 ニューヨークからパリに帰国
- 1872.6.18 ヴィヨームがサラサーテの1724年製ストラディバリウスを修理
- 1875.3.19 ジョン=バティスト ヴィヨームがパリで逝去
- 1877.12-1881.10 スペイン舞曲集 (全4集)を作曲。
- 1878 ツィゴイネルワイゼン作品20 (ジプシーのアリアAires gitanos)を作曲
- 1880 サン=サーンス: バイオリン協奏曲第三番ロ短調作品61を作曲。サラサーテに献呈
- 1881.1.2 サラサーテがバイオリン協奏曲第三番ロ短調をパリで初演
- 1883カルメン幻想曲 (バイオリンと管弦楽のための幻想曲)を作曲
- 1888.10.26 サラサーテが1713年製ストラディバリウス “Boissier ボワシエ”をガン&ベルナーデル商会から購入 (現Boissier-Sarasate ボワシエ-サラサーテ)
- 1899 序奏とタランテラ 作品43 Introduction et Tarantelle Op.43を作曲し出版
- 1904.11-1904.12.1 ツィゴイネルワイゼン Aires gitanos, ハバネラHabanera, タランテラTarantelle, ミラマールMiramar, バスク奇想曲Caprice basqueをパリで録音
- 1908.9.20 パブロ デ サラサーテがフランス南西部のバスク地方のビアリッツで逝去
- 1921.12.16 カミーユ サン=サーンスがアルジェで逝去
南イタリアの民族舞踊の舞曲タランテラ。
その名称は南イタリアの街タラントで農民を悩ませたタランチュラ (コモリクモWolf spider, 学名Lycos tarantula)に由来し、その踊りの起源は紀元前の儀式にまで遡ります。
多くの作曲家がタランテラのリズムを使った曲を発表しており、南イタリアを象徴するメロディとして映画でも使われています。
サラサーテの“序章とタランテラ作品 43”は、モデラートの序章とアレグロビバーチェのタランテラから構成されています。
静かで抒情的な序章から、快活で激しいタランテラのメロディラインに乗せた終章。
1904年に録音されたレコードでは、サラサーテの超絶的で高度な技術が詰め込まれた後半のタランテラの章だけが演奏されています。
そしてサラサーテで有名な楽曲がツィゴイネルワイゼン。
1904年に収録されたツィゴイネルワイゼンのレコードには、途中でサラサーテ本人が呟いた声が録音されています。
”Abajo el pedal de la sordina! ダンパーペダルを踏んで”
その後、ピアノの音が間伸びしながら続いたと思ったらピアノ演奏のみでレコード第1面の録音が終了しており、続きを端折ることで体裁良く第2面に移行させたように感じます。
それでもサラサーテの肉声が記録されていることで、当時の収録の生々しさが伝わってきます。
当時、サラサーテが弾いていたバイオリンは、ストラディバリウスの1724年製 “le Sarasate ル サラサーテ”と1713年製 “Boissier-Sarasate ボワシエ-サラサーテ”の2挺。
この1724年製のストラディバリウスは1817年から1840年にかけてピコロ パガニーニも演奏したバイオリンで、サラサーテの遺言によりパリ音楽院に寄贈されました。
現在では”le Sarasate ル サラサーテ”の愛称で呼ばれます。
そして、もうひとつは1713年製のバイオリン “Boissier-Sarasate ボワシエ-サラサーテ”。
1821年にパリ音楽院の教授となり1833年にブリュッセル音楽院の院長も務めた音楽評論家のフランソワ=ジョセフ フェティスに寄れば、この “Boissier-Sarasate ボワシエ-サラサーテ”は、ストラディバリウスの中でも名品と呼ばれる僅か5挺のひとつになります。
深い金色の下地に濃い赤色が特徴的で、やはりサラサーテの遺言によりマドリード音楽院に寄贈されています。
何れも将来のバイオリン製作の参考になるように貴重な標本としての保存をサラサーテが希望し、サラサーテに所縁のある2つの音楽院に寄贈されとのことです。
フリッツ クライスラー
- 1875.2.2 オーストリア ウィーン生まれ (21 グローセ シッフガッセ)
- 1894.8.27 ドボルザーク:ユーモレスク小品集をボヘミアで作曲
- 1895 軍隊に入隊後、音楽活動に復帰するもウィーンフィルを追われる
- 1899 ベルリンフィルで成功
- 1901 ハリエット リースと出会う
- 1902 ニューヨークで結婚。ロンドンデビュー
- 1904.5.1 アントニン ドボルザーク:プラハで逝去 (当時はオーストリア=ハンガリー帝国、62歳)
- 1905 "愛の喜び"、"愛の悲しみ"を作曲
- 1910.5.11 ユーモレスクをバイオリン編曲し録音
- 1914 第一次大戦の東部戦線に出征。陸軍中尉
- 1914.11.14 第一次大戦が終結
- 1916.5.29 「ベートーヴェンの主題によるロンディーノ」を作曲し録音。ビゼーの「アルルの女 第1組曲よりアダジェット」を編曲し録音
- 1919 ニコライ リムスキー=コルサコフのオペラ "金鶏"から "太陽への賛歌"を編曲
- 1921 ラフマニノフが "愛の悲しみ"を編曲
- 1924-38 欧州 (独、仏)で音楽活動
- 1925 ラフマニノフが "愛の喜び"を編曲
- 1928 シューベルト国際作曲コンクール開催 (コロンビア グラモフォン主催)
- 1928.3.24 ドボルザーク "スラブ舞曲 第2集 作品72”とリムスキー=コルサコフのオペラ "金鶏"から "太陽への賛歌"を編曲しニューヨークで録音
- 1928.9.15 ベルリンでグリックのソナタをラフマニノフとの共演で録音
- 1928.12.21 ニューヨークでシューベルト "バイオリンとピアノのためのソナタ"をラフマニノフとの共演で録音
- 1935.2.8 クライスラー編曲は、実は殆どがクライスラー自身の作曲と暴露される
- 1938 故国オーストリアが独ナチスに併合されたため、フランス国籍を取得
- 1939 第二次大戦で欧州を離れてアメリカへ
- 1941 交通事故で重傷。視覚障害や記憶障害に
- 1950 引退
- 1962.1.29 ニューヨークで逝去
フリッツクライスラーのバイオリン演奏で録音されたユーモレスク。この時、ニューヨークでは、ビクタートーキングマシーン社とグラモフォン社の両方に向けて2回録音されたようです。
前回紹介したのはグラモフォン社のHis Master’s Voiceというレーベルです。
その録音が行われたのが1910年5月11日。今からなんと111年も前のことです。この時代は勿論、電気を介せずに直接バイオリンの生の音の生の響きが、生の振動としてレコードの溝に刻み込まれていました。
クライスラーがウィーンフィルを追われてしまった後で、ベルリンフィルに呼ばれたのが1899年のこと。この間、軍隊にも所属したりして、やっと音楽に道を見つけた喜びに満ち溢れた時期だったと想像します。
それに加えて、自分の演奏が、技術の発達によりレコードとして記録できるようになるとは、クライスラーの興奮はどれほどだったでしょう。
しかし、そんな喜びも束の間、そのわずか4年後に第一次世界大戦により、クライスラーは陸軍中尉として東部戦線に出征して音楽家としての道は再び閉ざされたのです。
ミシャ エルマン
- 1835.7.10 ヘンリク ビエニャフスキが現ポーランドのルブリン (当時 ロシア帝国)で生まれる
- 1853 ヘンリク ビエニャフスキ: バイオリン幻想曲 Souvenir de Moscow モスクワの想い出”を出版 (原曲ロシア民謡 “赤いサラファン”)
- 1880.3.31 ヘンリク ビエニャフスキがモスクワで逝去
- 1880.12.9 パーシー カーンがロンドンで生まれる
- 1891.1.20 ミシャ エルマンがウクライナ キーウ北側の村タルネで生まれる
- 1899.2.11 ヘレン カテンがカリフォルニアで生まれる
- 1902 エルマン: サンクトペテルブルグ音楽院
- 1904 エルマン: ベルリンでデビュー
- 1905 エルマン: ロンドンデビュー
- 1906.6.14 エルマン: ロンドンで初めての録音 “Souvenir de Moscow モスクワの想い出” (バイオリン ミシャ エルマン / ピアノ パーシー カーン)
- 1908 エルマン: カーネギーホールで米国デビュー
- 1911 エルマン: 米国に単身移住
- 1914.7.28 第一次世界大戦が勃発
- 1914.10 エルマン: 家族を米国に呼び寄せる
- 1917 ロシア革命
- 1923 エルマン: 米国の市民権を取得
- 1925.2.2 エルマン: ヘレン カテンとサンフランシスコで結婚
- 1966.5.2 パーシー カーンが英国ケント州マーゲイトで逝去
- 1967.4.5 ミシャ エルマンがニューヨークで逝去
- 1984 NHKみんなの歌 “赤いサラファン”を放送 (歌 研ナオコ)
- 1994.2.7 ヘレン エルマンがニューヨークで逝去
演奏家 - ピアノ
アルフレッド コルトー
- 1877.9.26 スイスのニヨンで生まれる
- 1896 フランスに移住
- 1902 ユダヤ系ベルギー人のクロチルド ブレアルと結婚
- 1905-1920 ジャック・ティボー、パブロ・カザルスとカザルス三重奏団として演奏
- 1919 パリにエコールノルマル音楽院を設立
- 1920 米国とソ連で指揮者として演奏ツアー
- 1925.3.21 ビクター トーキングマシーンからクラシック音楽で世界初の電子録音
- 1925 ショパン “ワルツ” 7番をビクトローラで録音
- 1927 第1回ショパン国際ピアノコンクール開催。ショパンの音楽性がフランスからポーランドに移る変換点に
- 1928.10-1929.7 サル コルトー (コルトー コンサートホール)建設。1987年に歴史的記念物に指定
- 1929.3.11 & 6.7 ショパン "バラード第1~4番" 初めてのセット組を録音
- 1930 ショパン “ワルツ” 7番を英国HMVで録音
- 1933 ショパン “ワルツ” 3番 “華麗なるワルツ”を英国HMVで録音
- 1935 ショパン “ワルツ” 3番と4番 “子猫のワルツ”を英国HMVで録音
- 1936 ショパン “ワルツ” 7番と8番を米国ビクターで録音
- 1942 ドイツ軍の宣伝イベントで演奏。後にフランスで有罪になり演奏停止
- 1946.12.2 パリで妻と死別
- 1947.1 パリのシャンゼリゼ劇場でショパンの“葬送行進曲”を演奏。反対者の暴動が起きる
- 1947 ショパン “ワルツ” 6番 “子犬のワルツ”をHMVで録音
- 1947-1949 スイスに移住
- 1949.11.4 ロンドンで、ショパン “ワルツ 9番 “別れのワルツ”と “ワルツ 11番”を録音
- 1960 第6回ショパン国際ピアノコンクールで初めて東欧圏以外の優勝者
- 1962.6.15 スイスのローザンヌで逝去
アルフレッド コルトーは、蓄音機が普及し始めた1920年にはピアニストとしての地位を確立し、音楽教育にも貢献しました。ショパンの曲も多く録音しています。
しかし、第二次世界大戦に際してドイツ軍の宣伝イベントで演奏したことを契機にフランスでの立場が変貌します。有罪判決、演奏活動の停止、そしてパリのシャンゼリゼ劇場でショパンの”葬送行進曲”を演奏したことが、パリ市民を激怒させて暴動を引き起こしたのです。
ついにフランスを離れ、スイスに移住したコルトー。
ところが、この一連の事件に別の背景を想像することができます。
1902年に結婚したコルトーの妻はベルギー生まれですが、ユダヤ系の家系でした。コルトーがドイツ軍との関係を責められて有罪判決を受けた時、妻は72歳の高齢でした。それから4年後の1946年12月、妻はパリで亡くなりました。
その翌月、1947年1月にコルトーがパリのシャンゼリゼ劇場でショパンの“葬送行進曲”を演奏したのは誰に向けての想いだったのでしょうか。パリ市民の暴動に、コルトーの心はどれほど打ちひしがれたことでしょう。
ショパンの”ワルツ9番" (別れのワルツ)と”ワルツ11番”をロンドンで録音したのは、愛する妻を失って3年後、1949年11月4日のことでした。
ゼンマイの音と共にコルトーの想いを感じてください。
セルゲイ ラフマニノフ
- 1873.4.1 ロシア ノヴゴロド生まれ
- 1892.9.26 前奏曲嬰ハ短調 作品3の2「幻想的小品集」をモスクワで初演
- 1892-1893 卒業後にモスクワで移住 (15 プロトニコフレーン, 旧19 ニコルスキーレーン)
- 1897 サンクトペテルブルクでの交響曲初演が大不評。自身喪失と神経衰弱に
- 1899 別の交響曲がトルストイに不評
- 1900 組曲第二番とピアノ協奏曲第二番で成功。グリンカ賞を受賞
- 1902 従妹のナターリャ サーチナと結婚
- 1904-1906 ボリショイ劇団の指揮者
- 1906-1909 ドレスデンに滞在
- 1907 交響曲第二番を作曲。二度目のグリンカ賞を受賞
- 1909 ピアノ協奏曲第三番を作曲
- 1910 ボストンシンフォニーの永久指揮者のオファーを蹴ってロシアへ
- 1917.10 ロシア革命で米国ニューヨークに亡命
- 1919 エジソンと音楽品質への姿勢で折り合わず、エジソンレコードと解約
- 1920-1942 ビクタートーキングマシーンで録音
- 1920.11.3 「紡ぎ歌」をニュージャージーで録音
- 1921.10.14「前奏曲嬰ハ短調 作品3-2」をニュージャージーで録音
- 1921 クライスラー "愛の悲しみ"を編曲
- 1925 クライスラー "愛の喜び"を編曲
- 1925- 欧州で演奏と録音
- 1926 ピアノ協奏曲第四番を作曲
- 1928 シューベルト国際作曲コンクール開催 (コロンビア グラモフォン主催)
- 1928.9.15 ベルリンでクライスラーの共演でグリックのソナタを録音
- 1928.12.21 ニューヨークでシューベルト "バイオリンとピアノのためのソナタ"をラフマニノフとの共演で録音
- 1931 スイス ルツェルン湖畔の別荘に滞在。交響曲第三番を作曲
- 1939.4.1 独ナチスがポーランド侵攻。第二次大戦が勃発
- 1942 スイスを追われて米国ビバリーヒルズへ移住
- 1943.3.28 ビバリーヒルズの自宅で逝去
交響曲などの作曲家としては、なかなか評価されずに不遇の時代を過ごしたラフマニノフ。
1900年と1907年に作曲家として栄誉あるグリンカ賞を2度も受賞しながら、コンサートピアニストとして他の作曲家の曲を演奏することが多くなります。
1917年10月に起きたロシア革命により故国のロシアを追われてアメリカに住むようになってから、作曲の創造性や活力を失っていきました。
アメリカには、大麦と白樺がないから作曲できない。
90年前のレコードに、その時代のラフマニノフの生々しい哀しみが刻み込まれて、レコードの溝をたどる度に、それが再びよみがえってくるような気がします。
ベンジャミン ブリテン
- 1913.11.22 英国サフォーク州ローストフトで生まれる (21 カークリークリフ ロード)
- 1931-33 ロンドンに居住 (173 クロムウェルロード)
- 1935- GPOフィルム・ユニット社(イギリス郵政局映画部)で記録映画の作曲に従事
- 1937.8.25 ザルツブルク音楽祭で初演された “フランク・ブリッジの主題による変奏曲”で国際的な名声
- 1937 生涯のパートナーとなるテノール歌手、ピーター ピアーズと出会う
- 1939.6-1942.3 米国旅行中に英国が第二次大戦に参戦。ピアーズと共にニューヨークに移住
- 1942 サフォークを詠った詩に郷愁を感じて英国オールドバラに戻るが、兵役を拒否
- 1946.2.21 “Come You Not from Newcastle? ニューキャッスルから来てはくれないの?”を作曲
- 1947.8.27 英国で “フォーク ソング集”を録音 (ピアノ: ブリテン, 歌: ピアーズ)
- 1948.6.5 第1回オールドバラ音楽祭を開催
- 1976.12.4 英国オールドバラで逝去
- 1986.4.3 英国オールドバラでピーター ピアーズが逝去
ヨゼフ レヴィーン
- 1825.10.25 ヨハン シュトラウス: ウィーン生まれ
- 1866 オーストリアがプロイセンとの戦争に敗戦
- 1867.2.15 ヨハン シュトラウス: “美しく青きドナウ”の合唱をウィーンで初演。ヨーゼフ ヴァイルが敗戦した母国を鼓舞した作詞。後から曲名が付けられた。
- 1874.12.13 ヨゼフ レヴィーン: モスクワ生まれ。ユダヤ系ロシア人
- 1888ヨゼフ レヴィーン: 公式デビュー
- 1890.7.2 フランツ フォン ゲルネルトが現行の歌詞に改訂し初演。国々をつなぐ荘厳な内容でハプスブルク帝国の第二の国歌に
- 1892 セルゲイ ラフマニノフ、アレクサンドル スクリャービンと共に首席でモスクワ音楽院を卒業
- 1898 ピアニストのロジーナ ベッシーと結婚
- 1899.6.3 ヨハン シュトラウス: ウィーンで逝去
- 1907 ロシアの反ユダヤ主義の影響でベルリンに移住
- 1917 ロシア革命でロシア銀行の資産を失う
- 1919 ニューヨークに移住。ジュリアード音楽院でピアノの教鞭
- 1928.5.28 ヨハン シュトラウスのワルツ “美しく青きドナウ”を録音
- 1944.12.2 ヨゼフ レヴィーン: ニューヨークで逝去
- 1945.4 オーストリアがドイツから独立。“美しく青きドナウ”が臨時国歌に
ラフマニノフやスクリャービンといった早々たる音楽家と共に学び、凌駕する成績でモスクワ音楽院を卒業したヨゼフ レヴィーン。
順調に演奏活動を行っていましたが、ロシア革命や第一次世界大戦といった歴史の波に翻弄されます。
ユダヤ系ロシア人としてロシアを追われ、ベルリンでも不遇の時代を過ごします。この時期、ロシア銀行の資産を失い、演奏活動もままならず、ニューヨークのジュリアード音楽院でピアノ教育に従事することになりました。
そんな時代を経て、1928年5月28日に録音したのが、ヨハン シュトラウスのワルツ “美しく青きドナウ”。この合唱曲は、元々は単に敗戦したオーストリアを鼓舞する歌詞でしたが、23年が経った後に、国々をつなぐドナウ川を象徴する荘厳な歌詞に変更されました。
オーストリアの第二の国歌、“美しく青きドナウ”。故国を追われ、時代に翻弄されたヨゼフ レヴィーン。国々をつなぐドナウ川を象徴する曲に、レヴィーンはどんな歌詞を想うのでしょうか。
ゼンマイの音から生の振動を感じてください。
声楽家 - ソプラノ
アメリタ ガリ=クルチ
- 1882.11.18 アメリタ ガリ=クルチがイタリアのミラノで生まれる
- 1889.1.15 ホーマー サミュエルズが米国オークレアで生まれる
- 1906 アドリア海に面したトラーニ (長靴の踵辺り)でデビュー (ベルディ “リゴレット”のジルダ役)
- 1908 マルケーゼ ルイジ=クルチ (小説家/画家)と結婚
- 1916.11.18 “リゴレット”のジルダ役で米国デビュー (シカゴ)し、大好評。シカゴ オペラ協会と契約
- 1916 ビクタートーキングマシーンとレコーディング契約
- 1917.1.25 リゴレットから “美しい恋の娘よ Beilla figlia dell’amore” (カルテット)をニューヨークで録音。テナー: エンリコ カルーソ; バリトン: ジュゼッペ ド ルーカ; ソプラノ: アメリタ ガリ=クルチ; コントラアルト: フローラ ペリーニ
- 1917.1.31 “クラリ: ホーム、スイートホーム” (詩 ジョン ハワード ペイン 曲 ヘンリー ビショップ)をニューヨークで録音
- 1917.2.2 ジュゼッペ ベルディのオペラ “リゴレット”から “愛しい人の名は Caro nome che il mio cor”をニュージャージーで録音 (ジルダ役)
- 1919.3.7 ジュゼッペ ベルディのオペラ “椿姫”から “そは彼の人か Ah! Fors' é lui”をニュージャージーで録音 (ビオレッタ役)
- 1920 マルケーゼ ルイジ=クルチと離婚
- 1921 伴奏者のホーマー サミュエルズと結婚
- 1921.1 シカゴ オペラ協会が倒産。シカゴ シティオペラ カンパニーを経てシカゴ リリック オペラに。
- 1921.8.2 エンリコ カルーソがナポリで逝去
- 1921.11.14 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビュー (“椿姫”のビオレッタ役)
- 1930.1 ガリ=グルチ: オペラの舞台から引退
- 1950.8.26 ジュゼッペ ド ルーカがニューヨークで逝去
- 1956.10.14 ホーマー サミュエルズが米国サンディエゴで逝去
- 1963.11.26 アメリタ ガリ=クルチが米国サンディエゴのラ ホヤで逝去
- 1975.9.23 フローラ ペリーニが逝去
- 1988 スタジオジブリの映画 “蛍の墓”のエンディング曲にガリ=クルチが歌った “ホーム, スイートホーム”を使用
蓄音機レコードが盛んに録音された時代に大人気を博したソプラノのひとりがアメリタ ガリ=クルチです。ソプラノの中でもコロラトゥーラという歌唱法で才能を発揮しました。
細かく速い音符が連なっている節で、声を転がすように歌うことでドラマチックに彩る技法です。その技法が特徴的なオペラが、正にガリ=クルチが得意としたジュゼッペ ベルディの “リゴレット”のジルダ役でした。
1916年11月18日、ガリ=クルチはシカゴの公演で、“リゴレット”のジルダ役を演じて大好評を博します。初めての米国デビューでの大人気により、そのままシカゴ オペラ協会と契約しました。
同年、ビクター トーキングマシーンとレコーディング契約を締結。年が明けた1917年2月2日には、ベルディのオペラ “リゴレット”から “愛しい人の名は Caro nome che il mio cor (ジルダ役)”をニュージャージーのカムデンスタジオで録音しました。
この録音は、コロラトゥーラを得意とするガリ=クルチの最高峰の歌唱とも評されます。
衝撃の米国デビューから、僅か2か月半。ガリ=クルチの高揚と興奮が響いてくるようです。
ジェラルディン ファーラー
- 1881.8.12 セシル デミルが米国アシュフィールドで生まれる
- 1882.2.28 ジェラルディン ファーラーが米国メルローズで生まれる
- 1885.7.29 セダ バラが米国シンシナチで生まれる (本名 セオドシア ブール グッドマン)
- 1901 ベルリン国立歌劇場 Staatsoper unter den Lindenでグノー “ファウスト”のマルグリット役でデビュー
- 1901-1903 ベルリン国立歌劇場で人気を博し、トマ “ミニョン”等を主演
- 1906.11.26 ニューヨーク メトロポリタン オペラ (MET)で米国デビュー (ロミオとジュリエット)。ニューヨーク タイムズ紙とニューヨーク トリビューン紙が芸術性の高い天性のソプラノと愛らしい容姿を称賛
- 1906.12.31 ファウストにマルグリット役で出演 (METでの初演)
- 1907.2.11 プッチーニの蝶々夫人を主演 (METでの初演)
- 1908.3.6 ミニョンを主演 (MET)
- 1908.12.3 カルメンにミカエラ役で出演 (MET, カルメン: マリア ゲイ)
- 1910.2.25 ファウストから “宝石のアリア Air des bijoux”と “ツーレ王のバラード Il était un roi de Thulé”をニューヨークで録音
- 1914.11.19 カルメンを初主演 (MET)。イブニングポスト紙が美貌と表現力を称賛、
- 1914.12.9 カルメンから 、第一幕 “ハバネラ Habañera, L'amour est un oiseau rebelle” “セギディーリャSeguidilla”、第二幕 “ジプシーの歌 Chanson Bohême, Les tringles des sistres tintaient” “山の彼方へ là-bas dans la montagne” をニューヨークで録音
- 1915.5.24 “バラのごとくこの上なき Mighty lak' a rose”とオペラ “ミニョン”から “君よ知るや南の島 Connais-tu le pays?”をフリッツ クライスラーのバイオリン演奏と共に録音
- 1915.10.31無声映画 “カルメン” (監督 セシル デミル)を主演。各紙が美貌と演技を称賛
- 1915.11.1 無声映画 “カルメン” (監督 ラウル ウォルシュ)を舞台女優で当時のセックスシンボルのセダ バラが主演。バラの愛称は “Vamp 魔性のバンパイア”。
- 1916.2 モーションピクチャー マガジンで特集: “カルメンのライバル: ファーラーかバラか”
- 1916.2.4 ファーラー: 俳優のルー テゲルンと結婚
- 1922 ファーラー: METで引退公演
- 1923 ファーラー: テルゲンの浮気で離婚
- 1926 バラ: 芸能界を引退
- 1931.6.23 ファーラー: ラジオで初めて歌を披露 (NBC)
- 1934 テルゲンが自殺
- 1955.4.7 セダ バラが米国ロサンゼルスで逝去
- 1959.1.21 セシル デミルが米国ハリウッドで逝去
- 1960 音楽 (レコードのシンボル)と映画 (映画カメラのシンボル)の2部門でハリウッド ウォークオブフェームを受賞
- 1967.3.11 ジェラルディン ファーラーが米国リッジフィールドで逝去
米国のソプラノ歌手、ジェラルディン ファーラーがグノーのオペラ “ファウスト”のマルグリット役で初舞台を踏んだのはベルリン国立歌劇場。1901年のことでした。
ベルリンで人気を博し、1906年11月26日には米国のメトロポリタン歌劇場でデビューして大好評を得ます。当時のニューヨーク タイムズ紙とニューヨーク トリビューン紙が、ファーラーの芸術性の高い天性のソプラノと愛らしい容姿を称賛しています。
メトロポリタン歌劇場のプリマとなったファーラーを有名にしたのは、映画 “カルメン”への映画女優としての主演でした。
ジョルジュ ビゼーのオペラとして既に人気を博していた “カルメン”。1915年10月31日から上映された、このファーラー主演の映画をきっかけにして、オペラ “カルメン”は数多くの映画の題材になりました。
また、翌日の1915年11月1日には、当時、米国のセックスシンボルとして人気があった舞台女優のセダ バラを主演として、ファーラーに対抗する映画 “カルメン”の上映が始まっています。
バラの愛称は “Vamp 魔性のバンパイア”。
オペラ歌手のファーラーが主演する映画との対比は、1916年2月に発刊されたモーションピクチャー マガジンで “カルメンのライバル: ファーラーかバラか”と特集される程の話題になりました。
まだサイレント映画の時代、ファーラーの映画はオーケストラの伴奏付きで上映され、映画音楽の先駆けと言われています。
オペラ歌手でありながら、映画女優として人気を博したジェラルディン ファーラー。その代名詞ともなった “カルメン”を、ゼンマイの音から当時の生の振動を感じてください。
セレスティーナ ボニンセーニャ
- 1853.1.19 “イル トロバトーレ” (作曲 ジュゼッペ ベルディ)をローマのアポロ劇場で初演
- 1877.2.26 セレスティーナ ボニンセーニャがイタリア北部のレッジョ=エミリアで生まれる
- 1905 “イル トロバトーレ”から “穏やかな夜 Tacea la notte placida”をミラノで録音
- 1921 オペラの舞台から引退
- 1947.2.13 セレスティーナ ボニンセーニャがイタリア北部のフォルミージネで逝去
イタリアのソプラノ歌手、セレスティーナ ボニンセーニャが歌うのは、ジュゼッペ ベルディのオペラ “イル トロバトーレ”の第一幕から “穏やかな夜 Tacea la notte placida”。ヒロインのレオノーラが、騎士で吟遊詩人のマンリーコへの純粋で愛しい想いを歌い上げます。
ジョゼッペ ベルディのオペラが描くヒロインを忠実に表現する演技者として知られたボニンセーニャ。1905年に録音されたレコードですが、1853年1月19日にローマで初めて演じられたベルディの世界観を感じさせてくれるのでしょう。
ネリー メルバ
- 1813.10.10 ジュゼッペ ベルディが現在の伊パルマのレ ロンコーレ村で生まれる
- 1821.3.24 マチルデ マルケージが独フランクフルト アム マインで生まれる
- 1853.3.6 ベニスのフェニーチェ劇場で”椿姫”が初演。準備不足で大失敗。
- 1854.5 “椿姫”の再演。念入りな準備により大喝采。
- 1858.12.22 ジャコモ プッチーニが伊トスカーナ地方のルッカで生まれる
- 1861.5.19 ネリー メルバが豪メルボルン近郊のリッチモンドで生まれる (本名 ヘレン ポーター ミッチェル)
- 1882.12.22 チャールズ アームストロングと結婚
- 1883.10.16 長男 (ジョージ)誕生
- 1884 夫のハラスメントで離婚
- 1886 ロンドンのプリンシズ ホール (ピカデリー)でデビュー。あまり評判にならなかったためパリでマチルデ マルケージに師事
- 1887.10.12 ブリュッセルのモネ劇場でデビュー。ベルディのオペラ “リゴレット” (ジルダ役)で大成功。故郷のメルボルンにちなみ芸名をメルバに。
- 1889.6.15 ロンドンのコベント ガーデンで “ロミオとジュリエット”を演じて名声を確立
- 1896.2.1 プッチーニのオペラ “ラ ボエーム”がトリノのレージョ劇場で初演
- 1899 メルバが “ラ ボエーム”のミミ役を直接プッチーニに師事
- 1901.1.27 ジュゼッペ ベルディがミラノで逝去
- 1907 “ラ ボエーム”を演じるためニューヨークのマンハッタン歌劇場と契約
- 1907.3.24 メルバがプッチーニのオペラ “ラ ボエーム”から“私の名はミミ”をニューヨークで録音
- 1907.3.27 メルバがジュゼッペ ベルディのオペラ “椿姫”から”ああ、そは彼の人か”をニューヨークで録音
- 1913.11.17 マチルデ マルケージがロンドンで逝去
- 1924.11.29 ジャコモ プッチーニがブリュッセルで逝去
- 1931.2.23 ネリー メルバがシドニーで逝去
マルゲリーテ ダルバレス
- 1884頃 マルゲリーテ ダルバレスが英国リバプール近郊のブートルで生まれる
- 1907フランスのルーアンでデビュー
- 1909マンハッタン歌劇場でニューヨークデビュー
- 1911.11.13 ロンドン歌劇場の開設に伴いロンドンデビュー
- 1916 エオリアン-ボカリオン レーベルが設立 (米国1918.5-1921.8 英国1920-1922)
- 1919末 エオリアン-ボカリオン: 横溝型レコードの製造開始
- 1920.3 エオリアン-ボカリオン: 縦溝型レコードの製造停止
- 1920 ボカリオン レーベルに改名
- 1921.4 ジュゼッペ ベルディのイル トロバトーレから “我らの山へ”のデュエットを英国で録音 (ダルバレスとクリミ)
- 1924 ブランズウィックが、ボカリオン レーベルを買収
- 1953.10.18 マルゲリーテ ダルバレスがイタリアのアラッシオで逝去
ルイーザ テトラツィーニ
- 1871.6.29 イタリア フィレンツェ生まれ
- 1890.10.21 フィレンツェのパリアーノ劇場 (現ヴェルディ劇場)でデビュー。19歳にしてマイアベーアのオペラ作品 “アフリカの女”のイネス役を演じる
- 1890.12.26 ローマでイタリア国王と女王の前でイネスを演じる
- 1892-1895 南アメリカツアー
- 1896.12.31 サンクトペテルブルクでデビュー
- 1896-1897 欧州ツアー…マドリッド、ミラノ、ツリン、オデッサ
- 1899-1903 欧州ツアー…イタリア、ドイツ、ポーランド、ロシア
- 1905.1.11 米国デビュー…サンフランシスコ
- 1907 英語圏でも名声を獲得
- 1904-1920 レコーディングした期間
- 1911.7.14 アンブロワーズ トマのオペラ作品 “ミニョン” 第二幕 “私はティターニア”を録音
- 1940.4.28 イタリア ミラノで逝去
蓄音機が普及し、シェラック (カイガラムシの殻から取った天然樹脂)でできたレコード盤が作られた時期は、テトラツィーニの絶頂期と重なっています。
テトラツィーニがレコード録音していた時期は、電気を介さずに、声の振動を直接に録音していた期間。1904年から1920年という短い期間です。
1911年7月14日、アンブロワーズ トマのオペラ作品 “ミニョン” 第二幕 “私はティターニア”が録音されました。
この作品は、パリのオペラ=コミック座で1866年に初めて公演されました。オペラ=コミックらしく、主人公の旅芸人の娘ミニョンが幸せになるハッピーエンドの内容ですが、通常のオペラに多い悲劇的なエンディングのバージョンもあるようです。
テトラツィーニが歌うのは、ミニョンの恋敵でオペラ歌手のフィリーヌが、男爵の邸宅で開催された演劇中に披露したシェイクスピアの”真夏の夜の夢”の一場面。妖精の女王として自信満々に高らかに歌い上げる姿が第二幕を締めくくり、第三幕への展開を期待させる重要な場面です。
声楽家 - テノール
エンリコ カルーソ
- 1858.12.22 ジャコモ プッチーニ: 伊トスカーナ地方のルッカで生まれる
- 1873.2.25 ナポリで生まれる
- 1866.7.23 フランチェスコ チレア: 伊パルミで生まれる
- 1897.11.27 ミラノのリリコ劇場でチレアのオペラ “アルルの女”を初演。フェデリコ役。
- 1900.1.14. プッチーニ: ローマのコンスタンツィ劇場で “トスカ”の初演 (テノール: エミーリオ デ マルキ)
- 1900.10.23 伊トレビゾでプッチーニのオペラ “トスカ”のカバラドッシ役。初演したマルキに優る評価。
- 1902.4.11 オペラ “トスカ”, ”ゲルマニア”, ”ラ ジョコンダ”, “メフィストフェーレ”を録音
- 1902.11.30 オペラ “道化師”, “カバレリア ルスティカーナ”, “ラ ジョコンダ”, “君なんかもう愛していない”, “フェドーラ”, “メフィストフェーレ”を録音
- 1902.12.1 オペラ “我が歌”を録音
- 1903 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビュー
- 1907.3.17 プッチーニのオペラ (ラ ボエームのロドルフォ役 “もうミミは帰らない Ah Mimi, tu piu”)をアントニオ スコッティと共にニューヨークで録音
- 1909.11.06プッチーニのオペラ (トスカのカバラドッシ役 “星は光りぬ” “妙なる調和”)を録音
- 1918.8.20 ドロシー ベンジャミンと結婚
- 1920.10.21 ブルックリン アカデミー オブ ミュージックで公演中に喀血し公演中止
- 1921.8.2 ナポリで逝去
- 1924.11.29 ジャコモ プッチーニ: ベルギーで逝去
- 1926 プッチーニ: “トゥーランドット”の初演 (テノール: ミゲル フレータ)
カルロ タリアブーエ
- 1801.3.19 サルバドーレ カンマラーノがナポリで生まれる
- 1813.10.10 ジュゼッペ ベルディがイタリアのロンコーレ (当時はフランス領)で生まれる
- 1852.7.17 サルバドーレ カンマラーノがナポリで逝去 (“イル トロバトーレ”の台本を執筆途中に急死)
- 1852.12.20 ベルディ: “イル トロバトーレ” “椿姫"の作曲を開始
- 1853.1.19 ベルディ: ローマのアポロ劇場で “イル トロバトーレ”を発表 (台本サルバドーレ カンマラーノ)
- 1854.5.6 ベルディ: 改変を経て “椿姫”を発表
- 1874.7.3 ウーゴ タンシーニがイタリア北部のピアチェンツァで生まれる
- 1898.1.13 カルロ タリアブーエがイタリア北部のマリアーノ=コメンセで生まれる
- 1901.1.27 ジュゼッペ ベルディがミラノで逝去
- 1923 タリアブーエ: イタリアのジェノバ歌劇場でデビュー
- 1930 タリアブーエ: ミラノのスカラ座でデビュー (ワーグナー作曲 “トリスタンとイゾルデ”)
- 1937-39 タリアブーエ: ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビュー
- 1944.3.24 タンシーニ: ベニスで逝去
- 1951.3 タリアブーエ: イル トロバトーレの第2幕から “君の微笑み”を英国で録音 (ルーナ伯爵役)
- 1956.3.9 タリアブーエ: ミラノのスカラ座で引退公演 (“椿姫”でマリア カラスと共演)
- 1978.4.5 カルロ タリアブーエがイタリア北部のモンツァで逝去
ジュゼッペ ベルディが、オペラ ”イル トロバトーレ”作曲したのは1852年12月20日。年が明けた1853年1月19日にローマのアポロ劇場で発表し、大好評を得ました。
一方で、同時に作曲を開始したオペラ “椿姫”は不評となり、幾度かの変更を経て1854年5月6日にようやく成功に漕ぎつけました。
オペラ “イル トロバトーレ”の発表から100年後の1951年3月、イタリアのバリトン歌手、カルロ タリアブーエは “イル トロバトーレ”の第2幕から “君の微笑み”を英国で録音します。
そして後にマリア カラスの出演で有名になったオペラ “椿姫”は、同じく100年後の1956年3月9日、マリア カラスと共演したタリアブーエの引退公演として、記念すべき演目になったのです。
ジュゼッペ ディ ステファノ
- 1858.12.22 ジャコモ プッチーニ: 伊トスカーナ地方のルッカで生まれる
- 1866.7.23 フランチェスコ チレア: 伊パルミで生まれる
- 1897.11.27 チレア: ミラノのリリコ劇場で “アルルの女”の初演 (テノール: エンリコ カルーソ)
- 1900.1.14 プッチーニ: ローマのコンスタンツィ劇場で “トスカ”の初演 (テノール: エミーリオ デ マルキ)
- 1909.11.06 カルーソ: トスカ “星は光りぬ” “妙なる調和”を録音
- 1908.11.8 アルベルト エレーデ: ジェノバで生まれる
- 1921.7.24 伊シチリア島モッタ サンタナスタージア村で生まれる
- 1921.8.2 エンリコ カルーソ: ナポリで逝去
- 1924.11.29 ジャコモ プッチーニ: ベルギーで逝去
- 1926 プッチーニ: “トゥーランドット”の初演 (テノール: ミゲル フレータ)
- 1941 イタリア軍に参加
- 1943 スイスに逃亡
- 1947 ミラノのスカラ座でデビュー
- 1948.2 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビュー
- 1948.2 チレアとプッチーニの歌劇を録音 (アルルの女 第2幕から ”フェデリコの嘆き-ありふれた羊飼いの話”; トスカ 第3幕から “星は光りぬ”)
- 1949 マリア ジロラミとニューヨークで結婚 (1976 離婚)
- 1950.11.20 フランチェスコ チレア: 伊バラッツェで逝去
- 1977 マリア カラスと付き合い始める (1993 結婚)
- 1992.6 ローマのカラカラ大浴場跡で最終公演 (プッチーニ “トゥーランドット”)
- 2001.4.12 アルベルト エレーデ: モンテカルロで逝去
- 2004.12 ケニアの別荘で強盗に襲撃され意識不明
- 2008.3.3 昏睡状態のままミラノで逝去
ジュゼッペ ディステファノは10代から歌唱の才能を発揮していました。しかし、本格的にオペラの教育を受け始めた1940年に、イタリアは欧州全体を巻き込んだ第二次世界大戦へと突き進んでいました。
1941年には軍に入隊することになりましたが、イタリアが降伏しドイツがイタリアを占領した1943年にはイタリア本土が戦場となり、スイスに逃亡することになりました。
ディ ステファノがオペラで活躍し始めたのは、イタリアに帰国した1945年。24歳のことでした。
才能は直ぐに輝き始めます。僅か2年後の1947年には、ミラノのスカラ座でデビュー。さらに翌年の1948年には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビューし、活躍の場を急速に拡げていきました。
チレアとプッチーニの オペラ (アルルの女 第2幕から ”フェデリコの嘆き-ありふれた羊飼いの話”; トスカ 第3幕から “星は光りぬ”)を録音したのは、1948年2月。翌年の1949年に結婚したディステファノが、正に絶頂を極めていた時期と言えます。
その熱情と振動をゼンマイの音から感じてみてください。
ジュリオ クリミ
- 1885.5.10 ジュリオ クリミがイタリアのシチリア島パテルノで生まれる
- 1910.4タリアのパレルモでイル トロバトーレのマンリーコ役でデビュー
- 1911.4イタリアのサレルノにあるベルディ劇場で公演 (マノンレスコーのマノン役)
- 1911.6.11ガブリエラ ミグリアードと結婚
- 1911.10.29イタリアのトレビソにあるコムナーレ劇場で公演 (ラ ワリーのハーゲンバッハ役)
- 1916 エオリアン-ボカリオン レーベルが設立 (米国1918.5-1921.8 英国1920-1922)
- 1918.7イル トロバトーレをミラノのリリコ劇場で公演
- 1918.12イル トロバトーレをイタリアのピアチェンツァとリミニで公演
- 1919.1イル トロバトーレをイタリアのマントバで公演
- 1919末 エオリアン-ボカリオン: 横溝型レコードの製造開始
- 1920.3イル トロバトーレをイタリアのアレッサンドリアで公演
- 1920.3 エオリアン-ボカリオン: 縦溝型レコードの製造停止
- 1920 ボカリオン レーベルに改名
- 1921イル トロバトーレをイタリアのロビーゴで公演
- 1921.4 ジュゼッペ ベルディのイル トロバトーレから “我らの山へ”のデュエットを英国で録音 (ダルバレスとクリミ)
- 1922.10イル トロバトーレをイタリアのジェノバで公演
- 1924 ブランズウィックが、ボカリオン レーベルを買収
- 1927.12.31イタリアのジェノバ (カルロ フェリーチェ劇場)で最終公演
- 1939.10.29 ジュリオ クリミがローマで逝去
ジョン マコーマック
- 1884.6.14 アイルランドのアスロンで生まれる
- 1906 リリー フォリーと結婚。イタリア トリノのキアブレーラ劇場でデビュー
- 1907 最年少のプリンシパルテナーとしてロンドンのコべントガーデンで公演
- 1909 米国デビュー
- 1911 ビクター ハーバートのオペラ "ナトマ"で主役に抜擢。オーストラリアデビュー
- 1914-1921 フリッツ クライスラーとの共演を英国で録音
- 1927.10.11 "Love's Old Sweet Song 愛しき歌声" "カスリーン マヴォニーン Kathleen Mavourneen" を英国で録音
- 1938 ロンドン 王立アルバートホールで引退公演
- 1938-1943 赤十字や兵士慰問コンサートなど
- 1945.9.16 アイルランドのダブリンで逝去
アイルランド出身のマッコーマック。オペラ歌手として世界中で名声を博しました。
蓄音機のレコードが普及してくると、オペラに限らずポップな歌も多数録音しています。フリッツ クライスラーとの共演も多いのですが、故郷のアイルランドに由来する曲が魅力的です。
ピーター ピアーズ
- 1910.6.22 英国ファーナムで生まれる
- 1937 生涯のパートナーとなるピアニストで作曲家のベンジャミン ブリテンと出会う
- 1939.6-1942.3 米国旅行中に英国が第二次大戦に参戦。ブリテンと共にニューヨークに移住
- 1942 サフォークを詠った詩に郷愁を感じて英国オールドバラに戻る
- 1946.2.21 ブリテン: “Come You Not from Newcastle ニューキャッスルからではなかったかしら?”を作曲
- 19478.27 英国で “フォーク ソング集”を録音 (ピアノ: ブリテン, 歌: ピアーズ)
- 1948.6.5 第1回オールドバラ音楽祭を開催
- 1976.12.4 英国オールドバラでベンジャミン ブリテンが逝去
- 1986.4.3 英国オールドバラで逝去
ペトル ムンテアヌ
- 1751.9.1 エマヌエル シカネーダーがドイツで生まれる
- 1791.9.28 モーツァルトがオペラ “魔笛”を作曲 (台本: シカネーダー作)
- 1791.9.30 ウィーンのフライハウス劇場で “魔笛”の初演
- 1812.9.21 シカネーダーがウィーンで逝去
- 1878 オスマン帝国からの独立が承認され、ルーマニア王国が成立
- 1914.7.28 第一次世界大戦が勃発
- 1916.11.26 ペトル ムンテアヌ: ルーマニアのクンピナに生まれる
- 1918.11.18 第一次世界大戦が終結
- 1940 ムンテアヌ: ブカレストの王立歌劇場でデビュー。ベルリンで音楽院を継続
- 1940.6.26 ソ連がルーマニアを占領
- 1941.6 ドイツのソ連侵攻に乗じてルーマニアが第二次世界大戦に参戦
- 1947 ムンテアヌ: ローマ歌劇場とミラノのスカラ座でデビュー
- 1947.2.10 パリ条約締結。ルーマニアは次第に独裁体制に
- 1947.8 ドイツ人の実業家の娘、ヨハンナ ビンターと結婚
- 1947.12.30 国王の退位によりルーマニア人民共和国の共産党政府が成立
- 1951.3 ムンテアヌ: オペラ “魔笛”から “なんと美しい絵姿”を英国で録音
- 1988.7.18 ペトル ムンテアヌ: イタリアのミラノで逝去
- 1989.11.9 ベルリンの壁が崩壊
- 1989.12 ルーマニア革命により独裁政権を打倒。民主化
ルーマニアのテノール歌手、ペトル ムンテアヌ。生まれた年の1916年は、第一次世界大戦の真っただ中でした。
ムンテアヌのテノール歌手としての生涯は、革命や戦争に翻弄されたとも言えます。
1940年、ソ連がルーマニアを占領した年に、ムンテアヌはブカレストの王立歌劇場でデビューします。その翌年にはドイツのソ連侵攻に乗じて、ルーマニアが第二次世界大戦に参戦しました。
この期間、ムンテアヌはルーマニアを離れ、ベルリンで音楽院に在籍していました。
そして、1947年、ルーマニア人民共和国が成立して独裁政権へと変貌していく年に、ムンテアヌはローマ歌劇場とミラノのスカラ座でデビューし、イタリアからヨーロッパへと名声を広めていきました。
ルーマニア革命により独裁政権を打倒して民主化に向かった年。その1989年を迎えることなく、前年の1988年7月18日に、ペトル ムンテアヌは故郷のルーマニアに戻ることなくイタリアのミラノで息を引き取りました。
モーツァルトが作曲したオペラ “魔笛”から “なんと美しい絵姿”を英国で録音したのは、1951年3月。ムンテアヌの代名詞とも呼ばれる楽曲です。
ベニアミーノ ジーリ
- 1890.3.30 イタリアのレカナーティ生まれ (長靴のふくらはぎ辺り)
- 1914.10.15 イタリア ロヴィーゴのソチアーレ劇場にデビュー
- 1916.12.26 ローマのコスタンツィ劇場 (現ローマ歌劇場)にデビュー
- 1918.12.19 ミラノのスカラ座にデビュー
- 1920.11.26 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー
- 1931 英国でジャコモ プッチーニ ”ラ ボエーム” (ロドルフォ役: 第1幕から”冷たい手を”)とシャルル グノー “ファウスト” (ファウスト役: 第3幕から“この清らかな住まい”)を録音
- 1932 出演料交渉が決裂し、イタリアへ
- 1935-1953 複数の映画に出演
- 1955 引退
- 1957.11.30 ローマで逝去
ローマのオペラ座にはベニアミーノ ジーリ広場が造られたほどに有名なテノール歌手です。そして、ニューヨークのメトロポリタンオペラで全盛を極めた時期が、蓄音機レコードが活発に録音された時期と重なっています。
しかし、メトロポリタン歌劇場との出演料交渉が決裂して、1932年には故国のイタリアに戻りました。
その直前、1931年に録音されたレコードには、ジャコモ プッチーニのオペラ ”ラ ボエーム”とシャルル グノーのオペラ “ファウスト”が収められています。
ファウストは、1858年に完成し、メトロポリタン歌劇場では1883年10月22日に初演の記録があります。原作になったゲーテの“ファウスト”はドイツ語ですが、オペラはフランス語で書かれました。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場ではどこの国の言語で上演されていたのかは明確ではありませんが、ベニアミーノ ジーリが1931年に録音したレコードは、ジーリの母国語のイタリア語で録音されています。
ニューヨークでの確執が影響しているかについては定かではありません。故国を離れて米国で名声を極めながら、故国への想いがそうさせたのでしょう。
声楽家 - バリトン
アントニオ スコッティ
- 1866.1.25 アントニオ スコッティがイタリアのナポリで生まれる
- 1866.10.9 マルタの王立歌劇場が開演
- 1873.2.25 エンリコ カルーソがナポリで生まれる
- 1873.5.25 マルタの王立歌劇場が火事で焼失
- 1877.10.11 マルタの王立歌劇場が再建されて開演
- 1889 マルタの王立歌劇場でデビュー
- 1898 ミラノのスカラ座でデビュー
- 1899.12.27 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でデビュー (ドン ジョバンニ役)
- 1901.2.4 メトロポリタン歌劇場でプッチーニのトスカの米国初演に出演 (スカルピア役)
- 1903 メトロポリタン歌劇場でエンリコ カルーソと共演 (オペラ “リゴレット”)
- 1907.3.17 プッチーニのオペラ (ラ ボエームのマルチェロ役 “もうミミは帰らない Ah Mimi, tu piu”)を親友のエンリコ カルーソと共にニューヨークで録音
- 1910.1.12 スコッティ: メトロポリタン歌劇場の主催で、記念すべき初めてのオペラのラジオ放送 (トスカ 第二幕と第三幕)
- 1910.1.13 カルーソ: メトロポリタン歌劇場の主催で第2回目のオペラのラジオ放送 (道化師 Pagliacci)
- 1912 アントニオ スコッティのファンが米国シンシナティにスコッティズ レストランを開業 (919 バインストリート)
- 1921.8.2 エンリコ カルーソがナポリで逝去
- 1933.1.20 メトロポリタン歌劇場で最終公演 (フランコ レオニのオペラ L’oracolo)
- 1936.2.26 アントニオ スコッティがイタリアのナポリで逝去
ジュゼッペ ヴァルデンゴ
- 1914.5.24 イタリア トリノ生まれ
- 1936 イタリアのパルマ王立劇場でデビュー。初プリンシパルとしてロッシーニの "セビリアの理髪師"のフィガロを披露
- 1938 ミラノのスカラ座でデビュー
- 1939 兵役に従事
- 1942 パルマで音楽活動を再開
- 1944 ロンドン キングスウェイホールで “道化師”を録音
- 1946 ニューヨークシティオペラから米国デビュー
- 1947 サンフランシスコでデビュー
- 1954.1.27 ニューヨークのメトロポリタンオペラで最終舞台
- 2007.10.3 イタリア アオスタで逝去
声楽家 - バスバリトン
フョードル シャリアピン
- 1973.2.13 ロシア カザン生まれ
- 1898 イオラ トルナーギ (1873–1965)と結婚 (イタリア人バレリーナ)
- 1894 王国オペラ座 サンクトペテルブルク
- 1896-1899 マモントフ プライベートオペラ アシスタント指揮者はラフマニノフで生涯の友人に
- 1904 イオラとの間に第ニ子誕生 (ボリス: グラフィックアーチスト)
- 1905 第五子誕生 (フョードル Jr: 映画俳優)
- 1910 マリナ ペツォルトとの間に第一子誕生 (マーファ)
- 1912 第二子誕生 (マリナ)
- 1917 ロシア革命
- 1921 反ソ的として干されて亡命。第三子誕生 (ダーシャ)
- 1921.10.12 "暗い墓場の中で"を録音
- 1926.5.20 "のみのうた"を録音
- 1927 マリナ ペツォルト (1882-1964)とパリで再婚
- 1936 来日公演 (東京 名古屋 大阪) シャリアピンステーキ誕生
- 1938.4.12 パリで逝去
- 1964 マリナ ペツォルトが逝去
- 1965 イオラ トルナーギが逝去
1921年に録音されたシャリアピンの歌、In questa tomba oscura。日本語に訳せば、「この暗い墓の中で」。
イタリアの詩人カルパーニの詩にベートーヴェンが作曲したものです。
1917年にロシア革命があって、反ソ連的だと、あらぬ疑いを掛けられて干されたあげくにシャリアピンは1921年に亡命しています。
そんな時期に録音されたことを考えると、ロシアを想うシャリアピンの嘆きのようにも感じます。
ニューヨークで録音された、このレコードのラベル。シャリアピンの名前が、何故かテオドア シャリアピンと、間違って印刷されています。
ヒョードルというロシアらしい名前がアメリカ人には馴染まなかったから、故意にテオドアというルーズベルトと同じ名前にして商業的な成功を狙ったのか、それとも単に担当者が馴染のない名前で間違ってしまったのか、今となっては分かりません。
この時代、SPレコードのラベルの間違いは散見されるので、間違っただけというのが一番ありそうです。
ポール ロブスン
- 1886.12.6 "ツリーズ"の作詞家 ジョイス キルマー: 米国 ニュー ブランズウィックで生まれる
- 1898.4.9 米国 プリンストンで生まれる
- 1913.2 ジョイス キルマー: 詩 ”ツリーズ”を執筆
- 1913.8 ジョイス キルマー: 詩 ”ツリーズ”を“マガジン オブ ヴァース”に発表
- 1917.8 ジョイス キルマー: 米国陸軍 (第69歩兵連隊)に所属
- 1918.7.30 ジョイス キルマー: フランス スランジュ=エ=ネル近郊で戦死
- 1926.2 英国で “ウォーターボーイ” “スティール アウェイ”を録音
- 1929-1930 ロンドンのブランチ ヒルに居住
- 1938 英国で “ツリーズ” “母が教えてくれた歌”を録音
- 1940 インドで “シルビア” “ソラ”を録音
- 1949.6.20 パリ平和会議の演説 (反差別と反戦)によりブラックリスト入り
- 1949.8.27 コンサート中止
- 1950 NBCへの出演差し止め。パスポート発行の拒否
- 1952 ソ連から国際スターリン賞を受賞
- 1952.5 米国とカナダの国境で平和コンサート。ウェールズに向けたラジオコンサート
- 1976.1.23 米国 フィラデルフィアで逝去
洋楽 - ボーカリスト
インク スポッツ
- 1892.9.19 フレッド アーラートがニューヨークで生まれる (本名 フレデリック エミール アーラート)
- 1892.9.20 ロイ タークがニューヨークで生まれる
- 1894.7.10 ジミー マクヒューが米国ボストンで生まれる (本名 ジェームズ マクヒュー)
- 1904.4.25 ヒューイ ロングがテキサスで生まれる
- 1905.2.17 ホッピー ジョーンズがシカゴで生まれる (本名 オービル ジョーンズ)
- 1905.5.10 アドリエル マクドナルドが米国領バージン諸島で生まれる
- 1906.12.10 ハロルド アダムソンが米国グリーンビルで生まれる
- 1909.1.3 ビリー ボーエンが米国バーミンガムで生まれる
- 1909.7.18 ディーク ワトソンが米国マウンズで生まれる (本名 アイボリー ジョーンズ)
- 1909.7.29 バーニー マッケイが米国マイアミで生まれる
- 1910.10.20 チャーリー フクアが米国マーチンズバーグで生まれる
- 1914.6.12 ビリー ケニーとハーブ ケニーが米国フィラデルフィアで生まれる
- 1915.12.14 ジェリー ダニエルズが米国インディアナポリスで生まれる
- 1928 “I’ll get by 何とかなるさ”を発表 (作詞 ロイ ターク 作曲 フレッド アーラート)
- 1931頃 ダニエルズとフクアがデュオ 結成 (ジェリー & チャーリー)
- 1933 ホッピー ジョーンズとワトソンが加わりカルテットでラジオ出演 (フォーリフ ブラザーズ)
- 1934 グループ名を変更 - フォーインクスポッツから、同年インクスポッツに
- 1934.11.30 ロイ タークがハリウッドで逝去
- 1936 病気のダニエルズに代わり、コンテストでビリー ケニーがテナーとして加入
- 1943 “A lovely way to spend an evening 素敵な夜の過ごし方”を発表 (作詞 ハロルド アダムソン 作曲 ジミー マクヒュー)
- 1943.10 フクアが米軍に徴兵。バーニー マッケイが臨時加入
- 1944.1.1 フランク シナトラの映画 “ハイヤー & ハイヤー”で “A lovely way to spend an evening 素敵な夜の過ごし方”が挿入歌に
- 1944.7 “A lovely way to spend an evening 素敵な夜の過ごし方” “I’ll get by 何とかなるさ”を英国で録音 (ジョーンズ, ワトソン, ケニー, マッケイ)
- 1944.9 ワトソンがビリー ボーエン (愛称 バターボール)に交代 (ケニーとの確執)
- 1944.10.18 ホッピー ジョーンズがニューヨークで逝去 (ザンジバルカフェの舞台中に脳溢血で卒倒)
- 1944.10 ジョーンズの代わりにクリフ ギブンが臨時加入
- 1945.3 マッケイがヒューイ ロングに交代。ギブンがハーブ ケニーに交代 (ビリー ケニーの双子の兄弟; 本名 ハーバート)
- 1945.10 フクアが復帰
- 1951.5 ハーブ ケニーがアドリエル マクドナルドに交代 (ラジオ番組に寝坊したため)
- 1953.10.20 フレッド アーラートがニューヨークで逝去
- 1954.7 インクスポッツが解散 (インクスポッツを名乗るグループが無数に出現)
- 1969.5.23 ジミー マクヒューがビバリーヒルズで逝去
- 1969.11.4 ディーク ワトソンがワシントン D. C.で逝去
- 1971.12.21 チャーリー フクアが米国ニューヘイブンで逝去
- 1978.3.23 ビリー ケニーがカナダのニューウェストミンスターで逝去
- 1980.3.5 バーニー マッケイが米国インディアナポリスで逝去
- 1980.8.17 ハロルド アダムソンがビバリーヒルズで逝去
- 1982.9.27 ビリー ボーエンがニューヨークで逝去
- 1987.9.1 アドリエル マクドナルドが米国マンハッタンで逝去
- 1992.7.11 ハーブ ケニーが米国コロンビアで逝去
- 1995.11.7 ジェリー ダニエルズが米国インディアナポリスで
- 2009.6.10 ヒューイ ロングが米国ヒューストンで逝去
グレイシー フィールズ
- 1898.1.9 グレイシー フィールズ (本名 グレイシー スタンスフィールド)が英国ロッチデールで生まれる
- 1906.9.17 フランツ ウィンクラーがオーストリアのジシュトランスで生まれる
- 1910 ロッチデール演舞場で歌手としてプロデビュー (演舞場は1970年に解体)
- 1917.7.24 ボブ ファーノンがトロントで生まれる (本名 ロバート ファーノン)
- 1930 “永遠にいつまでも”のドイツ語の原曲 “Fliege mit mir in die Heimat 私と故郷で飛ぼう”をフランツ ウィンクラーが作曲。第二次大戦中にはドイツ空軍が利用。
- 1931 主演した映画 “横町のサリー”の挿入歌 “サリー”で一躍有名に
- 1933 英国ピースヘイブンに孤児の養護施設を建設
- 1939 頸部がんを発症。ナポリのカプリ島に静養。芸能界を引退
- 1940.3 映画監督のモンティ バンクスと再婚。米国サンタモニカに移住。第二次大戦中は英国内外の兵士を慰問
- 1944.9 ボブ ファーノン: 第二次大戦で連合国の遠征軍として英国で演奏 (終戦後に除隊して英国に移住し軽音楽に傾倒)
- 1948 “永遠にいつまでも”の英語版をマリア ローザが作詞
- 1948.10.23 グレイシー フィールズとボブ ファーノンが “永遠にいつまでも”を英国で録音 (裏面 “バラ色の人生”)
- 1950.1.8 モンティ バンクスがオリエント特急で移動中に死去
- 1952.2.18 ボリス アルペロビッチとカプリ島で再婚
- 1962.5.8 フランツ ウィンクラーがオーストリアのブレゲンツで逝去
- 1978.9.16 英国ロッチデールにグレイシー フィールズ劇場を建設
- 1979.9.27 グレイシー フィールズがイタリアのカプリ島で逝去
スパイク ジョーンズ & シティ スリッカーズ
- 1902.4.13 デル ポーター: オレゴンのニューバーグで生まれる
- 1910.6.15 デビッド ローズ: ロンドンで生まれる
- 1911.12.14 リンドレイ アームストロング “スパイク” ジョーンズ: カリフォルニアのロングビーチで生まれる。線路のスパイクのように細い体型から “スパイク”があだ名に。
- 1942.5.29 ビング クロスビー “ホワイトクリスマス”の録音でパーカッション演奏
- 1942 ローズ: “ホリディ フォー ストリングス”を作曲
- 1945 イギリスで “ホリディ フォー ストリングス” “ドリップ ドリップ ドリップ”を録音
- 1965.5.1 ジョーンズ: ビバリーヒルズで逝去
- 1977.10.4 ポーター: ロサンゼルスで逝去
- 1990.8.23 ローズ: カリフォルニアのロングビーチで逝去
日本の音楽家
川上 貞奴 (河歌美 貞奴)
- 1871 (明治4) 東京 日本橋生まれ
- 1891 (明治24) 川上音二郎 (役者)と結婚
- 1899 (明治32) アメリカ巡業
- 1901 (明治34) ヨーロッパ巡業。欧米で空前の人気
- 1908 (明治41) 帝国女優養成所を設立
- 1911 (明治44) 音二郎が逝去
- 1917 (大正6) 女優引退
- 1920 (大正9) 福澤諭吉の娘婿と不倫同居
- 1918 (大正7) 名古屋市北区大曽根に「川上絹布株式会社」を設立
- 1924 (大正13) 川上児童劇団を設立
- 1925.12 名古屋で初演
- 1926.1 帝国劇場 福澤会長の支援を得て公演
- 1928.6.6 福澤会長が辞任 (実業界を引退)
- 1929 松竹が帝国劇場を買収
- 1930.4 (昭和4) 河歌美貞奴がポリドールで端唄 (忍ぶ恋路、梅は咲いたか、よりをもどして)を録音
- 1932.3.1 (昭和6) 満州国建国
- 1932 (昭和6) 川上児童劇団が解散
- 1934.1.1 東京宝塚劇場が開演
- 1938.2.15 (昭和12) 福澤桃介が渋谷で逝去
- 1946 (昭和21) 熱海の別荘で逝去
日本で最初の女優とされている川上貞奴。欧米でも、エキゾチックな美貌と演技で人気を博しました。
ロダンが彫刻のモデルをオファーしたが断ったという話、ピカソが演技を絶賛した話、フランス政府が勲章を授与したなど、人気の高さは、そういった逸話からも想像がつきます。
カワカミという音は同じですが、女優としては ”流れる川の上流”と書いて ”川上”です。しかし、歌手としては “大河の河に、歌う美しさ”と書いて ”河歌美”になっています。
レコードが録音されたのは、1930年4月。女優を引退して13年後に録音したことになります。
元々日舞に秀でた芸子だった貞奴ではありますが、この録音が本当に女優の “川上貞奴”だったのでしょうか?
その謎解きも楽しみのひとつとして、ゼンマイの音から聞いてください。
豊竹 呂之助
- 1842.1.1 岩崎 治助が大阪で生まれる (後に6代目 豊沢 広助を襲名)
- 1872.4.23 (明治5) 竹本 小土佐 (本名 本多つま)が名古屋で生まれる
- 1874.1.7 山本 大次郎が京都で生まれる (後に6代目 鶴澤 友次郎を襲名)
- 1874.8.4 (明治7) 豊竹 呂昇 (本名 永田 仲)が名古屋で生まれる
- 1877 寄席取締規則の改正。女性が寄席の舞台に
- 1883 竹本 京枝がデビュー
- 1883 (明治16) 岩崎 治助が豊沢 広作 (3代目)を襲名
- 1885 竹本 東玉、竹本 綾之助がデビュー
- 1886 竹本 小土佐がデビュー
- 1889.11.8 (明治22) 豊竹 昇之助 (本名 ヨネ)が大阪で生まれる
- 1890 豊竹 呂昇が名古屋でデビュー
- 1892 豊竹 呂昇が大阪デビュー
- 1893 山本 大次郎が鶴澤 大造 (2代目)を襲名
- 1897.4.22 (明治30) 豊竹 呂之助 (本名 黒川 キヨ)が奈良県で生まれる
- 1897.7.9 竹本 伊達子 (本名 石丸いと)が生まれる (後に竹本 土佐広を襲名)
- 1898 竹本 綾之助が結婚し引退
- 1898.9 豊竹 呂昇が東京デビュー (日本橋 宮松亭)
- 1901 豊竹 昇之助と昇菊が東京デビュー
- 1905 豊沢 広作が広助 (6代目)を襲名 (後に豊竹 呂之助を師事)
- 1908 豊竹 昇之助が結婚
- 1910 竹本 伊達子が大阪でデビュー
- 1912 鶴澤 大造が友次郎 (6代目)を襲名 (後に豊竹 呂之助を師事)
- 1916 豊竹 呂之助が豊竹 呂昇に師事し養女に
- 1918 竹本 伊達子が東京デビュー
- 1919 豊竹 呂之助が京都の南座で花形
- 1923.9.1 (大正12) 関東大震災
- 1923.9 豊竹 呂昇が引退
- 1924.3.19 豊沢 広助 (6代目)が逝去
- 1926 ニッポノホン (日本蓄音機商会)が英国のコロムビア レコードと契約
- 1926.9 豊竹 呂昇が “朝顔日記 大井川の段”をニッポノホンで発売
- 1928 ニッポノホン (日本蓄音機商会)が日本コロムビアに商号を変更
- 1928.8-10 (昭和3)豊竹 呂之助が義太夫 “朝顔日記 大井川の段”をコロムビアで発売
- 1930.6.7 (昭和5) 豊竹 呂昇が兵庫で逝去
- 1941 竹本 伊達子が土佐広を襲名
- 1951.10.8 鶴澤 友次郎 (6代目)が逝去
- 1957 竹本 土佐広が女義太夫で初の人間国宝
- 1965.11.16 豊竹 昇之助が逝去
- 1977.1.1 (昭和52) 竹本 小土佐が大宮で逝去
- 1992.7.27 竹本 土佐広が逝去